Amazon

2015年2月1日日曜日

利子率が長い期間に渡って低下した16世紀の資本主義最大の産業は出版業だった。
出版業界は、当初、ラテン語陣営に属していたが、ラテン語の聖書は既に飽和状態だった。
つまり、特権階級はラテン語の聖書をみんな持っていた。
そこで、出版業界はプロテスタント陣営側について、ルターの教えを大量に印刷してヨーロッパ中に売ったため、ドイツ語や英語はラテン語との勢力争いに勝利した。
したがって、長い16世紀の宗教改革は、ドイツ語、フランス語、英語で話す人達が、ラテン語を使う特権階級の人達から、情報わ奪い取る情報戦争だったと位置づけることができる。
現在、日本の利子率は世界で最も低く、人類史上、例を見ないほど長期にわたって超低金利の時代が続いている。
利子率が最も低いということは、資本が最も家事用にあることと同義である。
もはや投資をしても、それに見合うだけのリターンを得ることができないという意味では、資本主義の成熟した姿が、現在の日本だと言える。
そして、その日本で、3割の世帯が金融資産を全く持たない無産階級であるという事実が出現している。
現在の日本には、ストックとして1000兆円の借金があり、フローでは毎年40兆円の財政赤字を作っている。
GDPに対する債務残高が2倍を超えるほどの赤字国家であるが、破綻しないし、逆に日本の長期国債の金利は人類史上最低金利となっている。
そのカラクリは、フローの資金繰りに関しては、現在の金融機関ではマネー•ストックとしてある800兆円の預金が年3%、24兆円ずつ増加しており、その多くは年金である。
高齢者に支給された年金が消費に向かわず、預金として銀行に流れているのである。
さらに本来ならは資金不足セクターである企業では、1999年以降、恒常的に資金余剰の状態が定着しており、2013年第3四半期で、1年間の資金余剰は23.3兆円に達している。
この家計部門と企業部門を合わせた資本余剰は48兆円と、対GDP比で10%と高水準を維持しているのである。
これが金融機関を通して、日本国債の購入費に充てられ、毎年40兆円発行される国債が消化できているのである。
しかし、こうした状況は永遠に続くことはなく、日銀の試算では、2017年には預金の増加が終わると予測されており、そうなると日本国債は国内で消化できなくなり、外国人に買ってもらわねばならなくなる。
しかし、外国人は他国の国債金利と比較するので、日本国債の金利は不安定化し、現実的には金利上昇することになる。
日本国債の金利が上昇すると利払いが膨らみ、日本の財政は破綻をしてしまうことになる。
残された時間は、あと3年程度しかなく、その間に、基礎的財政収支を均衡させることが日本にとって喫緊の課題なのである。
12世紀から13世紀のイタリア・フィレンツェに資本主義の始まりを象徴する2つの出来事があった。
1つ目は「利子」が事実上、容認されるようになったこと。
本来キリスト教では金利を受け取ることは禁止されており、正確には、中世後期から「高利貸し」が禁止されていた。
しかし、12世紀を通じて貨幣経済が社会生活に浸透するようになると、フィレンツェに資本家が登場し、金融が発達し始め、メディチ家のような銀行は、為替レートを利用して、こっそりと利子を取っていた。
利子とは、時間に値段をつけることであり、利子を取るという行為は、神の所有物である「時間」を人間が奪い取ることである。
そして、1215年のラテラノ公会議で、「利子が支配いの遅延に対する代償、両替商の労働に対する賃金、貸付資本の損失リスクの対価とみなされるときには、貨幣貸付に報酬がなされてもよい。そして33%が貨幣の正当な価格の認可ぎりぎりの線」と認められ、利子が事実上、容認された。
2つ目は、12世紀にイタリアのボローニャ大学が、神聖ローマ皇帝から、大学として認められたこと。
13世紀にはローマ法王からの認可も受けた。
中世も「知」も神の所有物だったが、ポローニャ大学の公認は、広く知識を普及することを意味し、いわば「知」を神から人間に移転させるきっかけが、ボローニャ大学の公認だったのである。
社会学者のウルリッヒ・ベックは、『ユーロ消滅?』の中で、鋭い指摘をしている。
、「富者と銀行には、国家社会主義で臨むが、中間層と貧者には新自由主義で臨む」
バブルが崩壊すると、国家は資本の後始末をさせられる。
資産価格の上昇で巨額の富を得た企業や富裕層が、バブルが弾けると公的資金で救われる。
その公的資金は税という形で、国民にしわ寄せが行く事になり、今や資本が主人で国家が使用人という関係になっている。

ユーロ消滅?――ドイツ化するヨーロッパへの警告

日本の二極化も凄まじい状況になっている。
非正規雇用者が雇用全体の3割を超え、年収200万円未満で働く人が給与所得者の23.9%(1090万人)を占め(2012年)、2人以上世帯の金融資産非保有者が31.0%(2013年)に達している。
金融資産非保有世帯比率は、1987年には3.3%と低かったのが、2013年の31%というのは、1963年の調査開始以来、最も高い数値となっている。
1972年から1987年にかけての16年間の平均は5.1%だった。
2013年の31%の世帯は、おそらく家も持っていないので、無産階級と言える。
ゼロ金利に近づくということは、次のような解釈ができる。
もともと利子は、神に帰属していた「時間」を人間が所有することを意味していた。
その結果、たどり着くゼロ金利というのは、先進国12億人が神になることを意味するのである。
これは、時間に縛られる必要から解放されたという事であり、「タイム・イズ・マネー」の時代が終焉を迎えるということなのである。
同様に、「知」についても、中世までは神の独占物だった。
近代になって、国家と大手マスメディアが「知」(情報)を独占していたが、インターネットとスマホの普及により、先進国の人は、世界で何が起きているかを瞬時に知ることができるようになった。
これもまた、ある意味では、12億人が神になったという解釈ができる。
そういう意味で、資本主義とは、神の所有物を人間のものにしていくプロセスであり、それが完成しつつあるという解釈もできる。
1995年に国際資本が国境を越えてグローバル化するようになってから、アメリカは電子・金融空間を築き、僅か十数年で140兆ドルを超えるマネーを創出した。
リーマンショックと欧州危機により、この余剰マネーは新興国に手中することになったが、全てを吸収できていない。
2013年の新興国の経済規模は総額で28兆ドルであり、経済成長に必要な固定資本形成はピークでも経済規模の3割程度である。
この3割という数字は、日本が1973年に民間設備投資と住宅投資と公共投資を合わせて、33%だった事からも妥当である。
したがって、28兆ドルの経済規模の新興国にとっって、経済成長に必要な資本は、仮に国内貯蓄がゼロだとしても、3割の9.3兆ドルあれば十分なのである。
この3.9兆ドルというのは、ピーク時の数字であり、新興国自身の貯蓄が増えれば、海外からの資金調達は少なくで済む。
先進国では1970年半ばを境に、中間層の没落が始まっている。
アメリカでは、所得上位1%の富裕層が全所得に占める割合が、1976年の8.9%から、2007年の23.5%まで高まっている。
ちなみに、大恐慌直前1928年は23.9%だった。
16世紀に近代が幕を開けて以来、500年かけて、2010年時点の先進国12.4億人(世界人口の18%)は豊かになった。
この近代資本主義の特徴は、全人口の2割にあたる先進国が、独占的に地球上の資源を安く手に入れられる事を前提としていた。
ところが、21世紀のグローバリゼーション時代には、BRICsの29.6億人、さらに残りの27.2億人に対して、かつての先進国と同様に豊かになるだろうと期待をもたらし、先進国の12.4億人が500年かけて達成した生活水準を、56.8億人が20~30年で達成して豊かな生活を手に入れようとしている。
しかし、新興国の近代化は、これまでの先進国の近代化とは大きく異なり、新興国の全員が豊かになれる訳ではないのである。
新興国の場合、経済成長と国内での二極化、格差拡大が同時に進行していくことになる。
中国の一人当たりGDPが、先進国に追いついた時点で、21世紀の価格革命が収束すると予測される。
日本の一人当たり実質GDPに、中国が追いつくのは20年後となる。
2012年時点での日本と中国の一人当たり実質GDPには4倍の開きがあるが、将来の成長率を日本1%、中国8%とすると、20年後に日中の一人当たり実質GDPは同水準となる。
つまり、2030年代前半に、中国の一人当たり実質GDPが日米に追いつくまで、資源価格の上昇と新興国のインフレ、つまり価格革命は収束しない。
日本の実質賃金の推移は、2010年を100とすると、1997年第1四半期の111.3をピークに、下がり続けている。
2001年第1四半期には106.1、2013年第4四半期には97.7となっている。
こうした傾向は、データが存在する130年間の歴史において初めてのことで、総付加価値がプラスの伸びを示している時に、雇用者報酬の伸び率がマイナスになったのは、1990年以前には無かった。
1990年以前までは、労働と資本の分配比率が1世紀にわたって、その比率が変わらなかったということである。
ところが、20世紀末にグローバリゼーションの時代となり、資本側がこの分配比率を変えたのである。
社会学者イマニュエル・ウォーラースティンは『近代社会システムⅡ』で、「封建社会の危機を脱する道こそが、余剰収奪の新たな形態である資本主義的世界システムを創造することにほかならなかった」と述べている。
そして、資本主義・主権国家システムへの過渡期において、旧来の固定的な地代収入に頼っていた荘園領主は没落すると同時に、労働者の実質賃金も低迷をたどる。
1477年のピーク時を100とすると、実質賃金は1597年には24まで下がってしまうのである。
そして、1477年と同じ水準にまで実質賃金が回復するのは、1886年まで待たねばならない。

近代世界システムII―重商主義と「ヨーロッパ世界経済」の凝集 1600-1750

グローバリゼーションとは、その本質は「中心」と「周辺」の組換え作業であり、ヒト・モノ・カネが国境を自由に越えて世界全体を繁栄に導くといったものではない。
20世紀までの「中心」は「北」(先進国)であり、「周辺」は「南」(途上国)だった。
21世紀に入り、「中心」はウォール街となり、「周辺」は自国民、具体的にはサブプライム層になるという組み替えが行われた。
中間層が没落した先進国で、消費ブームが戻ってくることはない。
現在の課題は、先進国の過剰マネーと新興国の過剰設備をどう解消するかである。
この2つの過剰を是正すると、信用収縮と大量失業を生み出すことになるので、時間をかけるしかない。
その間、先進国では、ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレが続くことになる。
現在、金融経済の規模は実物経済よりも遥かに膨らんでおり、電子・金融空間には余剰マネーが、マネー・ストック・ベースで140兆ドルある。
レバレッジを高めれば、この数十倍のマネーが電子・金融空間を徘徊することになる。
これに対して、IMFの改訂によると、実物経済の規模は2013年で74.2兆ドルしかない。
金融技術でればレバレッジを掛ければ、瞬時にして実物投資10年間分の利益が得られる。
この状況では、量的緩和政策によってベース・マネーを増やせば、金融・資本市場で吸収され、物価ではなく資産物価の上昇、すなわち資産バブルを加速させる事になる。
そして、バブルが崩壊すれば、巨大な信用収縮が起こり、そのしわ寄せは中間層の雇用に集中する。
グローバリゼーションによって、金融経済が全面化してしまった1995年以降の世界では、マネー・スットックを増やしても国内の物価上昇につながらず、マネタリスト的な金融政策の有効性は1995年で切れてしまっている。
金融緩和の有効性を主張するマネタリストは、貨幣数量説(インフレは貨幣現象である)に基づいている。
貨幣数量説とは、貨幣の流通速度がたょうき的には一定のもと、「貨幣の数量が物価水準を決定する」という理論であり、数式で表現するとMv=PTとなる。
Mは貨幣数量、vは貨幣流通速度、Pは物価水準、Tは取引量。
つまり、貨幣数量(M)を増やせば、取引量(T)が増えるか、物価水準(P)が上昇するというのである。
しかし、貨幣流通速度(v)が一定であるという前提が、低金利下では崩れており、アメリカ国内の貨幣流通速度は落ちている。
つまり、貨幣数量(M)を増やしても、数式の右側に大きな変化は起きない。
貨幣数量説は、国民国家という閉じた経済の枠組みでしか成立しない。
さらには、取引量(T)の中には、実物経済での取引高だけではなく、金融市場での株や不動産の売買取引が含まれている。
実際に、実物経済の需要が縮小しているアメリカでは、株価の上昇があっただけで、ガソリン代、電気代、食糧費を除く物価水準には目立った変化はない。
皮肉なことに、マルタリストが金融のグローバル化を進めて来た結果、自ら「インフレは貨幣現象である」というテーゼを成り立たなくしてしまった。
アメリカの全産業利益に占める金融業の割合は、1929年から1984年まで平均して12.3%に過ぎなかった。
しかし1985年から2013年では20.2%に上昇し、住宅バブルが生じていた2001年から2007年には25.4%を占めるようになっていた。
歴史的に、マネーは銀行の信用創造によって作られてきた。
それには家計の所得が増加して、ある程度、貯蓄率が高くなければならないが、1970年代半ば以降、利潤率が低下し、所得の増加率が鈍化してしまい、銀行を通じて創造されるマネーは増えなくなってしまった。
そこで、アメリカ政府は、1933年銀行法(グラス・スティーガル法。商業銀行は自己資本の12倍までしか投資ができない制約)以来、原則禁止とされていた銀行業務と証券業務の兼業を認める、金融サービス近代法(1999年)に成立させ、金融・資本市場を自由化し、資産価格の値上がりによって利潤を極大化する政策をとった。
マネーが銀行の信用創造機能によって作られる時の主役は、労働者であり、商業銀行である。
金融・資本市場でマネーを作ろうとすれば、主役はレバレッジを大きくかけれる投資銀行となる。
その結果、1995年からリーマン・ショック前の2008年にかけての13年間で、世界の電子・金融空間には、100兆ドルのマネーが創出され、これに回転率を掛ければ、実物経済を遥かに凌駕する額のマネーが地球上を駆け巡ることになる。
日米英の10年国債の金利推移をみると、そのピークは、日本が1974年の11.7%、英国が1974年の14.2%、米国が1981年の13.9%で、それ以降、先進国の利子率は下がり続けている。
1973年にオイル・ショックによりエネルギーコストが上がり、1975年にベトナム戦争終結により、地理的空間を拡大することが不可能となり、1974年以降、利潤率の低下が始まり、それまで世界を規定してきた資本主義のシステムに歪みが生じてきた。
世界的な利子率の低下は、利潤を得られる投資機会が無くなったことを意味している。
なぜならば、利子率とは長期的に見れば実物投資の利潤率を表すからである。
資本利潤率とは、ROA(使用総資本利益率)として把握され、これは借入コスト(社債利回り、借入金利)とROE(株主資本利益率)の加重平均である。
総資本に占める割合は負債の方が大きいので、結局ROAは国債利回りに連動することになる。
10年国債の利子率が2%を下回るということは、資本家が資本投資をして工場を建てても、資本家や投資家が満足できるリターンが得られにくまったことを意味する。
つまり、利潤率の低下は、設備投資をしても利潤を生み出せない設備、つまり過剰設備になってしまう事を意味する。
シドニー・ホーマーとリチャード・シラによる『金利の歴史』には、紀元前3000年のシュメール王国から現在に至るまで、5000年の世界主要国の金利が掲載されている。
1997年までの人類の歴史の中で、最も国債利回りが低かったのは、17世紀初頭のイタリアのジェノバで、金利2%を下回る時代が11年間続いている。
日本の10年国債利回りは、400年ぶりに、そのジェノバの記録を更新し、2%以下という超低金利が20年続いており、人類歴史上、極めて異常な状態となっている。
経済的に見れば、近代とは成長と同義語である。
資本主義は「成長」を最も効率的に行いシステムであり、その環境や基盤を近代国家が整えていった。
資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、「周辺」つまりフロンティアを広げることによって「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステムである。
利潤を挙げれるフロンティアが無くなった現在において、無理やり利潤を追求すれば、そのしわ寄せは格差や貧困という形で弱者に集中する。
そして、現代の弱者は、圧倒的多数の中間層が没落する形となるのである。