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2016年9月9日金曜日

戦後のGHQ占領期における民主化政策によって、労働組合が爆発的に増加している。
戦前の組合数の最高は1000程度、組合員数の最高は42万人だったのが、1948年の時点では、組合数は3万4000件、組合員数は670万人になっている。
日本経済史上における高度経済成長とは、1955年から1973年の約20年間を指す。
この時期の日本経済は、景気変動の波を繰り返しながらも、年平均10%という経済成長を記録している。
この間に、日本の経済活動は5倍を遥かに超える規模となり、平均賃金も1万8000円程度(1955年)から7倍近く上昇し12万円台(1973年)に到達しており、人類史上まれな体験と言われている。
<日本の実質経済成長率の推移>
1955年  8.8%
1956年  7.3%
1957年  7.5%
1958年  5.6%
1959年  8.9%
1960年  13.3%
1961年  14.5%
1962年  7.0%
1963年  10.5%
1964年  13.1%
1965年  5.1%
1966年  9.8%
1967年  12.9%
1968年  13.4%
1969年  10.7%
1970年  10.9%
1971年  7.4%
1972年  9.1%
1973年  9.8%
1974年  ▲1.3%
1975年  2.5%
戦時中の日本の軍事行動により圧迫や被害を受けた連合国の中部には、日本軍の頂点に立っていた天皇を戦犯にすべきだ、という議論が広範に存在していた。
例えば、戦争末期のギャラップ世論調査(当時は未公表)によると、8割近くのアメリカ国民が天皇の殺害・追放もしくは処罰を要求していた。
政府レベルでも、天皇問題で強硬姿勢ほとっていたオーストラリアは、天皇の名を明記した戦犯リストを実際に作成していた。
1930年1月に、日本は金の自由輸出を認める大蔵省令を施行し、金解禁が断行された。
これにより、日本は1930年から1931年にかけて、一次的な不況を覚悟していた井上蔵相の想定をはるかに超える、未曽有の大恐慌となる「昭和恐慌」を経験することとなった。
1929年を100とする指標で、1931年の卸売物価は69.6となり30%以上のデフレとなり、日本の輸出品の主力だった繭の値段は42.3という価格崩壊となってしまった。
また輸出を価格ベースでみると1932年の指標は37.5となっており、昭和恐慌期における輸出品の価格急落の異常さを示す数値が記録されている。
<昭和恐慌前後の日本経済指標>
     1929年 1930年 1931年 1932年 1933年
卸売価格  100  82.3  69.6  77.2   88.5
米価    100  87.4  63.5  72.8   73.7
繭価    100  43.7  42.3  49.3   74.6
綿糸価格  100  65.5  56.1  63.7   88.5
東京株価  100  61.7  62.7  78.6   113.1
輸出価格  100  72.8  56.4  37.5   37.7
輸入価格  100  74.8  59.2  39.7   38.2
世界恐慌が1929年10月のニューヨーク株式市場における株価大暴落を起点にしているため、1930年の金解禁は世界恐慌を織り込めたはずではないか、という疑問をよく耳にする。
しかし、世界恐慌の影響が、いよいよ日本に及んでくるのは、1930年春からのことであり、米株価大暴落からしばらくの間、これが世界恐慌へと発展するという観測は、当時は世界のどきにも存在しなかった。
むしろアメリカの将来に対する楽観論が、圧倒的だった。
1931年9月18日に奉天(現・瀋陽)駅満州事変北方で、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件の謀略をきっかけに、関東軍は軍事行動を開始し、満蒙一体を武力制圧する。
日本の傀儡国家である満州国が誕生するのは、この満州事変から6ヶ月に満たない1932年3月1日だった。
満州事変が史上最悪の昭和恐慌の時期に発生していることを知る必要がある。
また、近代に日本が常に抱えていた問題に、急激な人口増があった。
1872年に3500万人弱だった日本の人口は、60年足らずの間に3000万人以上増加し、1931年には6500万人(植民地人口は除外)を超えていた。
1932年の満州国成立以降、満蒙開拓団などの農業移住が本格化し、数十万人の日本人が新天地へ向かうことになる。
つまり、満蒙の地は当時の日本における社会問題を一挙に解決する特効薬と認識されていた。
関東軍は、満蒙権益を管理していた行政機関である関東都督府の陸軍部を前身にしている。
ロシア革命後の1919年に、従来の関東都督府に代わり関東庁がおかれた際に、陸軍部が独立して関東軍となった。
陸軍の仮想敵国はソ連であったため、関東軍は設置当初から、旅順・大連・南満州鉄道などの日本の大陸利権の防衛に当たり、対露作戦の際には、最前線部隊の役割を担うこととなっていた。
1928年10月に満州に赴任した石原莞爾は、1929年7月に、ソ連との戦争を想定した調査を行うための偵察旅行を実施している。
満州の北方をソ連との国境に至るところまで、延べ数千キロに割って視察し、地形や情勢・戦略を徹底的に討議している。
結果、日本の勢力下にある南満州は平原部分が多く、ソ連軍の侵攻を仮定すると、その防衛は地形的に困難であり、満州の北方まで占領して黒竜江(アムール川)沿いにつづく興安嶺山脈を天然の要塞とすることが国防上、必須と判断したという。
1938年に制定された国家総動員法は、1937年7月に始まった日中戦争の長期化に対応して、国力を全面戦争の一点に集中させるものだったが、そこには、「人的及物的資源」の統制・運用を「勅命の定むる所」で行うと規定されていた。
つまり、この世のありとあらゆる物を、議会を経ない法令で、全面的に統制するというものである。
この法律により、法律案や予算案を事実上決定することができたはずの帝国議会の役割は、どうでもよくなってしまうことになった。
そして致命的な事に、この国家総動員法が帝国議会を通過したという事態そのものが、政党にとって自殺行為に等しかった。
1925年に、いわゆる普通選挙法が成立した。
衆議院議員選挙法の改正により、満25歳以上の男子が納税額による制限なしで選挙権を持てるようになった。
日本の場合、衆議院議員選挙法の制定は1889年だから、36年の歳月を経て普通選挙が実現したことになる。
この男子普通選挙には、軍部も支持している。
これまでの戦争の形を変え、第一次世界大戦が総力戦となった事が明らかとなり、この総力戦を勝ち抜く国家体制を構築するには、徴兵制の強化により、より過大な負担を国民に課していく必要があったからである。
そのために政治参加の権利を、広範に保証し国民の合意と納得を確保する必要があると、軍部は考えたのである。
有権者となるための納税額は、直接国税15円以上から始まり、1900年に10円、1919年には3円と定価して行くことになるが、1919年の段階で、有権者数は全人口の5.5%に過ぎなかった。
ところが、1925年の選挙法改正により、有権者数は一挙に4倍に増え1240万人となり、全人口比で20%を突破する。
一方で、この男子普通選挙は女性の参政権が対象外とされ、同時期に共産主義者の活動を防ぐための治安維持法も制定され、政治活動の自由も制約されている。
明治憲法の解釈をめぐる憲法学説に、憲法学者の美濃部達吉が提唱した「天皇機関説」、別名を国家法人説がある。
国家法人説は、もともとドイツで唱えられ、国民主権説に対抗する保守的な色彩の強い法理論とみなされていた。
しかし、天皇機関説は、憲法第4条にある「統治権」を、法人としての国家に属するものだと考え、この前提を根拠として、天皇を国家の最高機関に位置付ける。
つまり、国家の最高機関たる天皇は、憲法の条規に従い「統治権」を行使していくことになる。
天皇機関説に対抗する学説に、上杉慎吾らが提唱した「天皇主権説」があるが、両者の相違点は、天皇の権力を憲法の制約を受けるものとみなすか、それとも絶対無制限のものとするか、という点にある。
大正時代には、美濃部は上杉らとの論争にほぼ勝利を収め、世界における第一人者の地位を確立した。
1916年に、大正時代を代表する政治学者の吉野作造は雑誌『中央公論』に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず』という長い題名の論文を発表し、民本主義を論じた。
民本主義とは、吉野が民主主義の代わりにデモクラシーの訳語として採用した用語である。
デモクラシーの訳語をそのまま民主主義にしてしまうと、「民主」の部分に主権在民が含まれてしまって明治憲法に抵触するひとになるので、ボカシて「民本」にしようと、吉野は提唱した。
つまり、民本主義は民主主義よりも、ボンヤリした概念となる。
1890年に大日本帝国憲法に基づいて発足した帝国議会は、総選挙で当選した議員の集合体である衆議院と、皇族・華族・多額納税者から選ばれた貴族院で構成された。
明治憲法下では、衆議院がわずかに予算案の先議権を持つ以外、対等の地位と権限を持つものとされた。
明治憲法では、帝国議会の主要な権限は次のように規定されていた。
第37条 凡て法律は帝国議会の協賛を経るを要す
第64条 国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経るべし
両条文にある「協賛」とはスポンサー的な意味であり、帝国議会は提出される法律案や予算案に拍手を繰り返し、その成立を喜んであげるような役割しか与えられていない議会だった。
しかし、天皇大権のもと、法律・予算の決定権を含めて国家的権限を全て握っていた天皇が、一方で自己の意思を政治的な決定の場に持ち出さない存在(宮中・府中の別)でもあったため、天皇が議会決定を明確に否認した例は無かった。
つまり、議会の決定を常に天皇の意思とする慣行が成立していた事を意味する。
法律案や予算案についての「協賛」という弱弱しそうな権限を持つだけにみえる帝国議会は、事実上は法律案や予算案を決定できる力を行使していくことになる。
明治憲法下の帝国議会が力を発揮できたと言っても、現在の昭和憲法下において「国権の最高機関」とされた国会と比較すると権限は限定てきで不完全なものに過ぎなかった。
また、衆議院には国民の意思が反映しているとは言っても、選挙権の有無は直接国税の納入額で決まったので、当初の有権者数は全人口の1.1%しかなく、極めて不十分だった。
明治憲法には、第67条に「国会議員の中から国会の決議で、これを指名する」としかなく、首相の選対方法について何処にも規定が無かった。
そのため、1885年(第一次伊藤内閣)から1901年(第四次伊藤内閣)までの期間は、最初の政党内閣である第一次大隈内閣(1898年)を唯一の例外として、薩長出身の藩閥メンバーが自ら首相を務めた。
具体的には伊藤が4回、山縣2回、松方2回、黒田清隆が1回である。
20世紀初頭以降は、藩閥メンバーは政治の第一線から退くが、政界の最上層に位置する元老として、国政に影響力を行使し続けた。
この元老たちの最大の仕事の一つが、後継首相の選定だった。
従って1901年に組閣した桂太郎以降の首相は、元老の政治判断によって選ばれ、それから天皇に任命される形式をとった。
この元老制度は、1940年に最後の元老である西園寺公望が亡くなりと共に消滅し、以後の後継首相の選定は、内大臣の木戸幸一(枢密院議長)と協議する方法へと移行していく。