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2017年10月18日水曜日

労働力は、「消費」と「休息」でしか蓄えられない。
チームワークというのは、基本的に足し算ではなく、掛け算で発揮されるものである。
実力が1の人が何人いてもチーム力はアップしない。
しかし、9が2人いれば、18ではなく81になるという世界なのである。
問題はここに「0」の人間が混ざった時で、恐ろしい事にこの人は、チームの総合力を限りなく0に押し下げる役割を演じてしまう事になる。
物事に動じない心は、色んな知識、教養を身に着けることで養われる。
ある人間の信じがたい言動も、その背後にあるものを「知って」いれば、ある程度の余裕を持って対処できる。
上司から納得のいかない叱責を受けても「この人はなぜ怒っているのか」を分析しながら聞くことができる。
教養の深い人物は、つまらないことで感動したりもしない。
いたずらに感情を刺激されることで、発生する様々な問題に惑わされずに済むのである。
外国語のコミュニケーション能力の不足が強調されるあまり、教育の現場では「聞く」「話す」レッスンが中心になっている。
しかし「聞く」「話す」「書く」が「読む」能力を上回ることはない。
言語能力のアップには、レベルの高い文書の読解にチャレンジすることが不可欠である。
今の20代の若い世代の女性の多くがお見合い結婚を望んでいるという。
自由恋愛に社会的制約など無い時代に、あえて伴侶として相応しい人間を他社に求めるというのは、それなりの自我やプライドのある人には逆に耐えられないはずである。
そらに驚くのは、そこには親との軋轢を恐れる心理が大きく働いている事である。
勝手に選んだ相手を連れて行って、親が気に入らなかったらどうしよう。それくらいなら、最初から親の眼鏡にかなう人間を選んでもらった方がいい、という。
こういう人たちは、青年心理学でいうところの反抗期も、おそらく経験しなかったのだろう。
2016年に公開されたアニメ映画『君の名は。』が大ヒットして話題になった。
公開以来の興業収入は2016年12月5日現在で、200億円を突破し、『もののけ姫』を抜き、日本映画の歴代2位となった。
動員数は1500万人を超えたという。
しかし、マスメディアがブームを煽る一方で、日本中がお祭り騒ぎになっているわけでもない、不思議な現象である。
1500万人の中身には、おそらく一人で繰り返し映画館に通った人が含まれるというのが、ブームの実像だと思われる。
要するに、その世界に深く深くハマって、遠路はるばる「聖地巡り」に出かけたりするグループが存在する一方で、知らない人は「なにそれ」という構造になってるのである。
他人のことを嫉妬しない人は、人間として大きな美徳と言える。
しかし、困ったことに、自分が嫉妬しない人は、嫉妬の感情が分からない。
人はどんなシチュエーションで嫉妬し、時としてそれがどれほどの衝動を呼び覚ますものなのかを全然理解できない。
官僚には4通りある。
1.能力があり、意欲もある。
2.能力があるが、意欲がない。
3.能力がないが、意欲がある。
4.能力がなく、意欲もない。
どれが最低かと言えば、3の能力がないのに、意欲があるやつである。
嫉妬に狂い、問題行動を起こすのは、まさにこの3のタイプの人間である。
DVの被害者は連携したので、官憲の法律は何度も改正を重ねてきた。
しかし、ストーカーの被害者は、事が収まると「忘れたい」「もう関係ない」となってしまい、連携を取ろうとしないため、法律を変えるような力にならない。
もう一歩踏みだし、理不尽な状況を自ら変える存在となる必要がある。
ストーカー行為は、加害者を変えない限り根本的な解決にはならない。
だから「加害者をつくらない」ことが大事である。
ストーカーは、最初のコミュニケーションを間違ったために生まれることが多い。
拒絶の意思は率直に伝える人用がある。
煮え切らない態度でうやむやにしようとしたり、嘘をついてはならない。
SNSの爆発的普及に伴い、付き合ってもいないのに接近欲求を募らせるケースが増加しているという。
アイドルのサイトを見に行ったのがきっかけで、ストーカー化した末に事件を起こしてしまうケースは典型的である。
ネットがきっかけのストーキングが発生する経緯は、普通のやり取りをしているうちに、加害者の側が一対一で相対という欲求を募らせて、その旨をほのめかす。
ここで、被害者がキッパリ拒絶すべきところを、往々にして曖昧に対応をしてしまう。
そうすると加害者は「あれ、断られなかった」と認識するようになり、そこから贈り物を送ったり、個人のメールアドレスを欲しがったりという行動が始まっていく。
全く面識がないにも関わらず、もう付き合っているかのように、脳が把握してしまう。
満たされぬ欲求などをノートに書く「ノート療法」という心理療法があり、書くだけで安心して忘れる事ができる。
しかし、これをFacebookでやってしまうと、「相手が読んでくれているかもしれない」と脳が把握するので、「出力」となり、書き込むと同時にドーパミンが出て、接近欲求が暴走してしまうことになる。
ギリシャ語で「愛」には三種類ある。
まず自分に欠けているものを求める「エロース」。
セックスのように欠けているものが満たされるまで終わらない。
「アガペー」は何の見返りも求めない無償の愛である。
その中間に「フィリア」があり、難しい概念だが、「友情」とか「友愛」と訳される。
ストーカーは自分を愛することが苦手であるという。
自分を「好きになれ」と言っても、自信がないからなれない。
いい仕事がない、学歴がない、友達がいない、そんな自分はやっぱり嫌いなのである。
しかし、劣等感におぼれるのは嫌だから、普段は自分の心にふたをして抑圧している。
相手が自分の思いのままでいてくれれば問題はないのだけれど、何かの拍子で関係にひびが入ると、そこから堰を切ったように、おぞましい行為に走ってしまう。
他人を愛せる人というのは、「彼女のために自分は去ろう」と思える人間であるる
ストーカーには、その発想はなく、「あの人は、僕の為に存在しなくちゃいけないんだ」と思ってしまう。
ストーキングというのは、相手に対する過剰な関心が噴き出す行為であり、ストーカー的な振る舞いの原因は男女間の恋愛だけとは限らない。
ストレスが強い人はストーカーに成りやすいし、一度収まってもストレスがかかると再発することが良くあるという。
だからストーカーをやった事がある人が就職する場合には、なるべく穏やかな職場環境を選ぶ必要がある。
一般的にストレスが高い職場では、ストーカーが発生しやすく、性犯罪も起きやすい傾向があるという。
他にも、心から離せる人がいないというタイプの人は、ストーカーになりやすいという。
キリストは「汝の隣人を愛せ」とは言っていない。
「汝自身を愛するように汝の隣人を愛せ」と言っている。
要するに「自己愛が管理できなければ、他者など愛することはできない」という言説なのである。
他者愛よりも一次的に自己愛が重要だというのは、精神分析学においても前提となっていて、「自分を大事にしようと思ったら、他者を大切にしろ」という話にもつながっていく。
他人を罵倒してばかりいる人間は、だいたい自己愛がもろいか、歪んでいると考えられる。
今の35歳以下の年代は、「嫉妬」というテーマよりも「自己愛」の話の方が関心が高いという。
自分より遥かに高い人を目標にして、そこまで行きたい、という願望をあまり抱かなくなっている。
代わりに歪んだ自己愛、羨望の方向にシフトしているのかもしれない。
社会の成長に対する諦め感かせ大きく影響している事は否定できず、彼ら自身の成長に対する諦めとパラレルになっている。
若い人の多くが「自分は伸びしろがない」と思い込んでいる。
「中の下」には絶対落ちたくはないけれど、上には行けないことも分かっている、という感じの若者が多い。
彼らは「努力は才能」とよく言う。
つまり、最初から「努力は無理、無駄」だと思っている。
今の若者たちは、自己実現をしたいと思っていない。
「自己実現したい社会がどこにあるの?」という意識でいる。
そんなことよりも「仲間」に認められていることの方が、彼らにとってはよほど大事なのである。
自己実現を喪失し、承認欲求、しかもバーチャルな承認欲求が肥大化していく。
そのステージで、いびつな自己愛が温存されて増殖しているのである。
「リア充」組の方がLINEを活用しているデータがある。
かけらは、単純に恋人や仲間と連絡を取り合うためにSNSを使う。
ネット上ではリアルの方が上という価値観が、ずっと継続されている。
「リア充」という言葉が死後にならないのは、その証なのである。
かつてアメリカの大学に行く日本人留学生の失敗といえば、入学して遊び呆けたり、学力不足だったりで、結局卒業できなかったというのが殆どだったのだが、今や事情が大きく変わっている。
授業料が高騰して、難関大学に合格してもそれかせ支払えずに、入学自体を断念せざるをえないケースが増加しているのだという。
年間授業料が2100ドル程度だったコミュニティカレッジの授業料が、今や9000ドル、ハーバード大学になると3万ドルから7万5000ドルとなってしまっている。
授業料高騰の理由は、リーマンショック以降、大学の債券運用が上手くいかなくなったのに加えて、卒業生からの寄付も激減したからである。
従来と同じ教育水準を保つためには、授業料を値上げするしかないという。
深刻な影響を受けているのは、留学生よりもアメリカ人である。
例えば投資銀行に勤める世帯収入4000万円の20~30代の夫婦が子づくりを断念するというケースが増えているのだという。
理由は、ハーバードクラスの大学に入れるだけの授業料が準備できないからである。
そうした教育を受けられなかったら、子供は社会の底辺に行くしかない。
そんな不幸な目に遭わせるくらいなら生まない方が良いという理屈だという。
嫉妬心が希薄であることは美徳というのは間違いである。
嫉妬心が希薄だと、他人の嫉妬を察知することに鈍感になってしまい、それが結果として大きなトラブルを引き起こすことになるからである。
他人の嫉妬心を察知する力を高める必要がある。
拘置所では、ハンガーストライキは、自傷行為とみなされるので、処分対象となる。
山田昌之氏は著書『嫉妬の世界史』で、嫉妬を「他人が順調であり幸福であることを憎む感情」と簡潔にして的確に定義している。
そして、男性の嫉妬についても注目している。
男性の嫉妬はどうにも陰湿で粘着質ではないだろうか。
自分が他人より劣る、不幸だという競争的な意識があって心にうらみなげくことを「嫉む(ねたむ)」という感情と考えるなら、古くから仕事の上で競争にさらされてきた男の場合こそ、嫉妬心を無視するわけにはいかないのだ。
組織内で問題行動をとる人は、自己愛が肥大化していて、自分が特別な人間であるという強い信念を抱いている。
嫉妬は自分よりも能力があるとか容姿が端麗であるとかという人に対して向けられる感情であるので、自分が他人よりも圧倒的に優れていると信じている人には、嫉妬として艦上自体が起きないのである。
しかし、このような自己愛が肥大化した人でも、現実には社会の中で生きている。
それだから、そういう人は社会との軋轢を起こしてしまう。
その場合、自分が社会を呑み込むか、社会に自分が呑み込まれるという究極の選択を迫られることになる。
後者の場合、社会との関係を遮断してしまうという選択になるので、家族やパートナー以外の他者には影響を及ぼさない。
これに対して、自分が社会を呑み込んでしまうことを試みる人は、他者との様々な軋轢を起こす。
その一つがストーカーである。
世の中には、自己愛が肥大化していて、他人の気持ちになって考えるひとが極端にできない人がいる。
また、こういう人には嫉妬心も希薄である。
なぜなら、自分は特別な人間なので、周囲が自分の美しさや才能に嫉妬しているのであって、自分は嫉妬のような低劣な感情は持っていないと思い込んでいるからである。
霞が関のエリート官僚にこういうタイプの人が多い。
こういう人は大成功するか、人間関係で孤立し、社会の片隅に追いやられるかのいずれかである。
肥大化した自己愛が現実とぶつかり、敗れた人は、その後、無気力な人生を送ることになってしまうことが多い。
無差別殺傷事件を起こした人達は、自らの動機について、明確に意識して犯罪を犯したわけではない。
動機になる事柄を対象化し、認識することができていたならば、無差別殺傷事件という形態で問題の解決を図ろうとはしなかったであろう。
この人達は動機について、「学生時代に受けたいじめを思い出し、いら立ちを晴らそうとした」「自分だけが不幸だと感じ、幸せそうな人を狙った」と言うが、ここには自己愛がねじれた形で表れている。
学生時代に受けたいじめで、愛する自分の名誉と尊厳が毀損されたので、それを誰かを殺すことで晴らすという動機には、極端な愛がある。
自分よ幸せそうな人を殺害することで、自分の幸せが回復されると考えるのも、嫉妬と自己愛が入り混じっている。