検察の歴史をさかのぼると、現在の検察の姿は、明治から大正時代にかけて司法官僚として辣腕をふるった平沼騏一郎を抜きには語れない。
平沼は、現在の東京大学法学部を卒業後、司法省に入省し、その後、検事総長を経て、大審院長に就任した。
平沼の最大のテーマは、司法官僚の地位をいかに上げるかということであり、彼は見事に達成した。
最初のきっかけは、1909年の日糖疑獄であり、1910年の大逆事件だった。
最初のきっかけは、1909年の日糖疑獄であり、1910年の大逆事件だった。
日糖疑獄では、贈賄側の日本製糖の幹部、収賄側では立憲政友会、憲政本党、大同倶楽部の政治家20人を摘発した。
その後の海軍の軍艦購入をめぐる汚職であるシーメンス事件でも、要人摘発を繰り返し、その間に司法官僚の地位を上げることに成功した。
その後の海軍の軍艦購入をめぐる汚職であるシーメンス事件でも、要人摘発を繰り返し、その間に司法官僚の地位を上げることに成功した。
平沼は回顧録の中で、司法省は自分が入った明治時代半ばには、誰も振り向きもしない三流官庁だったげど、日糖疑獄を手掛けてからは、世間から一目置かれるようになったという意味の一文を残している。
平沼は、政界や他の官庁の懐に手を突っ込むことで検察の存在感を高めていった。
司法官僚に限らず、日本の官僚は、一方で国家を意識しながら、もう一方で省益をどうやって高めていくかを意識している。
ある意味では、相反する気持ちを強烈に持っていることが伺える。
ある意味では、相反する気持ちを強烈に持っていることが伺える。