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2016年9月25日日曜日

西南戦争の経験から、日本が学んだ近代的な軍隊の在り方とは、総大将は軍事を知らなくてもいい、素人でもよく、幕僚がしっかり把握すれば、あとは戦略、戦術によって勝つ事ができるというものだった。
そこにドイツ型の参謀本部システムが入ってくる土壌ができるのである。
ナポレオン以来、最強と言われたフランス軍を1871年に普仏戦争で破ったプロイセン軍の知名度が急上昇するのが明治4年にあたり、ドイツ軍が強い理由が、「近代ドイツ軍の父」と呼ばれるモルトケ率いる参謀本部だった。
日本の陸軍はモルトケの弟子にあたるメッケルを招聘し、軍隊の近代化を急いだ。
モルトケの参謀本部は、部隊を指揮することはせずに、作戦を立てる部門として独立したもので、作戦(スタッフ)と部隊指揮(ライン)を分けるのが特徴だった。
しかし日本はこの参謀本部を独特の形で発展させてしまい、参謀の中で有望とみなされた人間が実質的にはラインになって軍を指揮してしまう。
総大将よりも参謀重視が日本の軍隊のスタートとなった。
日本の軍隊は明治の初めに、天皇を守るための新兵として、薩摩藩と長州藩を中心に兵隊を集めてできた。
それまでは天皇を守る軍隊は無かった。
幕末には各藩に藩士、庶民からなる騎兵隊のような集団もあったが、これらは天皇の軍隊ではなかった。
彼らが最初に明治政府軍として、旧幕府側勢力軍と戦ったのが戊辰戦争であり、有栖川宮熾仁親王という公家を総大将にして、長州藩出身の山県有朋以下の参謀たちが支えて戦いに勝った。
この時はまだ天皇の軍隊ではなかった。
その後、薩長を主力として全国から兵を募り、武器の扱いや組織での動き方を訓練した兵隊を作るため、1873年に徴兵令施行として実施され、ようやく近代的な軍隊の体制が整った。
しかし、この徴兵令は武士の完全廃業を意味し、士族の反乱が相次いで起こり、ついに西南戦争が起きてしまう。
この西南戦争でも総大将を有栖川宮熾仁親王に、日本最強の兵といわれた薩摩軍を相手に戦う、天皇の軍隊として初めての戦闘だった。
薩摩軍は兵力3万人余、小銃1万1千挺、大砲60門という精鋭の大軍だった。
だから勝海舟は、薩摩軍が勝ち政府軍が負けて維新はもう一度やり直しになると言っていたくらいだった。
明治政府は大金をはたいて最新式の兵器を集めた。
西郷軍の主力が着火に手間取る旧式のエンフィールド銃だったのに対して、新型スナイドル銃の他、射程距離・貫通力ともにそれを凌駕するヘンリー・マルチーニ銃、ガトリング砲、アームストロング砲という大砲まで投入した。
ちょうど南北戦争が終わったばかりのアメリカで、武器が山ほど余っていて安く買えたのである。
格安といいながら、明治10年の国家財政支出が4800万円なのに対し、戦費は4156万円もかかっている。
結果的に物量と輸送力に助けられて政府軍が勝利する。
戦前の戦時国際法に関する日本の認識は極めて高かったはずである。
大学の基本的な教科書になっていた横田喜三郎の『国際法』の半分は、戦時国際法の記述だった。
反対に戦後になると、外交官試験の参考書には戦時国際法がなくて、戦時国際法は防衛大学なとで細々と教えられているだけとなった。戦争をしないという前提だからである。
戦前は、条約の重要性や宣戦布告の手続き、それに戦時国際法と平時国際法の切り替わりなど、外交官は細かい規則を全部覚える必要があった。
国際法の重要性を示す例として、1928年に結ばれたバリ不戦条約に実質的な効果があったことが挙げられる。
これがあるから、ヒトラーもむやみにズデーテン地方を攻めることができず、戦争をしないためにズデーテンを併合するしかない、という理屈を考え出した。
つまり平和を考えないと戦争ができないことになったのである。
それまでは手続きさえ踏めば、いつでも戦争を仕掛けても構わなかったが、戦争が違法となったことで、平和を維持するためという理屈をさけないと戦争ができなくなったのである。
一夕会は長州閥を追い出して自分達の天下を取りつつあった頃に、二つに分裂してしまう。
分裂の原因には、対ソ連への考え方の違いがあった。
永田鉄山は国家総動員法を作って日本をどんな戦争にも対応できるように国防国家にした方が良いと説き、それが「統制派」の考え方だった。
一方、小畑敏四郎は、ソ連が五カ年計画に次ぐ五カ年計画でどんどん強力になっていく前に、早めに叩いた方が良いという、「作戦の鬼」にしい軍事優先だった。
小畑は荒木貞夫陸軍大臣の秘蔵っ子だったので、国家統制より荒木の唱える天皇親政によって国を治めるという「皇道派」の中心人物となっていく。
この皇道派に繋がる青年将校が二・二六事件を起こしたことで粛清され、統制派が陸軍を牛耳るようになっていく。
皇道派は統制派によって「東京の十里四方以内には入れない」とまで言われるほど、全員が中枢から遠ざけられる。
のちにヤルタ会談後にソ連が参戦するという機密情報を東京に送ったスウェーデン駐在武官・小野寺信は皇道派に属していたため、その最重要情報が握り潰されたといわれている。
外務省は、入省して直ぐに語学研修で語学スクール(派閥)に分かれて、外国に赴任すれば同期同士のヨコの連絡が取りにくくなるので、水平的な派閥ができなくい組織である。
しかし、満州事変の頃に台頭してきた外務省革新派と呼ばれる世代は、採用人数が多かったためヨコの繋がりができやすかった。
第一次世界大戦で戦勝国となった日本は、国際連盟の常任理事国となり、様々な外交事案に対応しなくてはならなくなったのと、在外公館の数が増えて、外交官の人数を増やす必要が出てきて、採用人数を増やした。
日露戦争が始まった1904年に約250人だった在外公館職員(判任官以上)は、国際連盟が成立した1920年には約2倍になり、2年後には約700人にまで増えている。
本省職員も増えており、第一次世界大戦終了の1918年までは100人前後だったのが、2年後には一挙に2倍となり、1922年には300人近くにまで達している。
このように一挙に人が増えたため出世が遅れ、人事ほの不満へとつながった。
そして彼ら革新派が担ぎ出したのが、日独伊三国同盟を推進するイタリア大使の白鳥敏夫だった。
白鳥は満州事変の頃には、外務省情報部長というポストに就いていた。この情報部というのは、インテリジェンスではなく、日本の立場を宣伝するプロパガンダ部門だった。
革新派は満州問題で日本が孤立する中、幣原外相が主導した英米中心の協調外交に対抗して、独自の外交路線を主張するようになっていく。
欧米に対しての強硬路線は「皇道外交」と称され、陸軍と歩調を合わせて、三国同盟へと邁進していくようになるのである。
戦後の外務省は、同期の結びつきを極力弱めようとし、現在でも親睦会の枠を超えて同期が集まって政策的な話し合いをするのを嫌がるという。
国家総動員法を最初に考えたのは、陸軍きっての秀才だった永田鉄山だった。
永田は1935年に統制派の頭目と目されて、相沢三郎中佐に刺殺されてしまうが、陸軍の中心にいて徹底的な改革を行った人物である。
そして、ゼネラリストとしての才能を発揮して、戦争は軍隊だけでやるものではなく国家が総力を挙げてやるもの、だから国民の士気もまた戦力だ、という考えに辿り着く。
大正の中頃には『国家総動員に関する意見』という克明に研究した冊子を出している。
こうした永田の考えに共鳴した陸軍の中堅・若手将校が「一夕会(いっせきかい)」と呼ばれる派閥を作り、陸軍中央で勢力を伸ばしていくのである。
日米関係の緊張が最高潮に達していた1941年12月26日(日本時間27日)に、アメリカの春国務長官から突き付けられ、日本が対米英蘭開戦を決意した「ハル・ノート」の中に「Chinaから撤兵せよ」という条件があった。
この「China」がどの範囲を指すのか、日本政府も軍部も当然、満州が含まれていると考えた。
ところが、戦後になってアメリカから「満州は含まれていなかった」という説が伝わってきた。
それを聞いた開戦当時の国務大臣・企画院総裁の鈴木貞一中将は、「そんなバカな! もしそうであったなら戦争に踏み切る必要は無かった」と天を仰いで言ったという。
アメリカは満州国を承認していなかったので、当然のこととして満州国は含まれていると、東条内閣は判断したという。
言葉というものが、外交的に正しく判断できるかどうかで、歴史は変わるのである。
ポツダム宣言のバーンズ回答で、バーンズからの文書には、「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は・・・連合国軍最高司令官にsubject toする」とあり、この「subject to」をどう訳すかが問題になった。
そのまま訳せば、「隷属する」となるが、それだと軍部が収まらないので、外務省は意訳して苦し紛れに「制限の下に置かれる」とした。
また「国連」として、日本では定着した「United Nations」も、本来は第二次世界大戦の「連合国」を表すのに、日本の外務省は「国際連合」という言葉を使い、だいぶイメージが変わっている。
しかし「国際連合」という訳語を使ったことで、日本では実態以上に国際連合が政治的に中立なものと認識されてしまった。
本来の「連合国」としていれば、我々は敵国側だったので、あの戦争は戦後も我々を拘束している、ということを理解できたかもしれない。
1945年9月2日に、東京湾に錨を下したミズリー号での調印の時、マッカーサーは短い演説をしている。
外務省による正式な記録は、随行員だった加瀬俊一が訳したもので、「自由と寛容と正義を実現する世界の樹立せられんことを期待す」が一般的に参照される。
しかし、この演説の訳し方には、「自由と寛容と公正さへの願いが叶えられる世界となりますように」ともう一つ有り得る。
原文のJusticeを「正義」と訳すか「公正」と訳すかで、外交ではよく問題になる。
日本語のニュアンスでは、正義と公正は必ずしも同じではなく、「正義の味方」とは言うが「公正の見方」とは言わない。
公正取引委員会はあるが、正義取引委員会はない。
正義の方が規範原理があって倫理的な意味がより強区ね日本語の場合、公正というのは「公平」に近い。
justiceにあたるロシア語の「スプラベドゥリーボスチ」にも、正義と公正の両方の意味がある。
北方領土の交渉で、1991年9月にエリツィン大統領から海部総理宛てに親書が届き、「戦勝国と敗戦国の区別なく、法と<スプラベドゥリーボスチ>の原則によって、北方領土問題を解決したいと思いますけと書いてあった。
これを提案したのはクナッゼというロシア外交官の中でも有数の日本専門家であり、マッカーサーの演説を意識していると思われる。
日本政府は、エリツィン書館を「法と公正」と訳していたのを、ある時期から「法と正義」とするようになった。
「公正」とすると、現在、北方領土に住んでいるロシア人の人権を保全するというニュアンスが出てくるからで、「法とと正義」であれば、法的な解釈が正義だという意味が強くなる。
このようにジャスティスは正義と公正のどちらに訳すかで、意味が異なることから、外交上では注意が必要なキーワードとなる。
日本の兵隊を捕虜にして、シベリアに連行して労働力にすることを決めた根拠は、ヤルタ会談でのドイツの賠償について取り決めた条項の中にあった。
米英ソが議定書の中で、「ドイツは、戦争中に連合国に対して生ぜしめた賠償を、現物をもって賠償しなければならない」とあり、その現物賠償に3つの方式が挙げられ、その一つとして「(c)ドイツの労働力の使用」とはっきりと記されていた。
つまり、1945年2月のヤルタ会談の時点で、ドイツ人捕虜を労働力として使うことを英米も認めており、それが「現物賠償」の一つとしてポツダム宣言に残り、日本にも適用されてしまった。
ソ連三大劇場の一つであるウズベキスタン・タシュケントのナヴォイ劇場は、日本人捕虜が建てたものである。
シベリア抑留された日本軍には、元大工もいれば、元左官もおり、建築工事の技術者は不足しておらば、そして真面目に働いた。
そのナヴォイ劇場は、1966年4月26日にタシュケントを襲った地震で、他の多くの建物が倒壊したにもかかわらず、もびくともせず残っていて、市民の避難場所になったという。
占守島は、千島列島の最北東端に位置する豆粒みたいな小さい島だが、その先には千島海峡をはさんでカムチャッカ半島、その東にはアリューシャン列島に至る。
だからこの島に置かれた日本の陸軍部隊の仮想敵国はアメリカだったが、1945年8月18日にソ連軍が攻撃を仕掛けて来た。
この日から21日まで4日に渡ってソ連との死闘が繰り広げられた。
実際に占守島では日本軍は奮闘しており、日本側の資料によるとソ連軍は3千人の死傷者を出したという。
その後、ソ連軍は手島列島へ進軍し、南千島の得撫島、北方四島が完全占領されたのは9月3日のことだった。
もし占守島で、ソ連軍を足止めできていなかったら、スターリンの思惑通り、北海道もソ連に占領されていたかもしれない。
ソ連の占守島へのこだわりは、クリル諸島という言葉が示す範囲にも関わっており、日本がいう北方領土とロシアのいうクリル諸島の範囲は異なる。
ロシアのいうクリル諸島とは、占守島はもちろん、北方四島までを範囲として指している。
ちなみにヤルタ会談では、ソ連の参戦と引き換えにクリル諸島がソ連に引き渡されることが英米との間で合意できていたが、その範囲がどこまでを指すかは、あいまいなままだった。