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2016年12月7日水曜日

ペリーの来航に驚いた幕府は、この危機を朝廷から勅許を得ることで開国を正当化しようと考えた。
それ以前は、幕府が政策決定でいちいち朝廷に許可を得ることは無かったが、それ以降は「外交政策の決定には朝廷の許可が必要」ということになってしまった。
ペリーととの間で交渉された日米和親条約については、朝廷から事後に承諾を得られたが、その後の日米通商条約には朝廷から承諾をえられなくなってしまった。
その為、大老の井伊直弼は朝廷の許可なく、通商条約を調印してしまい、それが諸藩や志士の反発を招き、尊王攘夷活動に火を付けてしまい討幕への流れができてしまう。
さらに、幕府は文久2(1862)年に、諸藩の参勤交代を3年に一度に変更し、江戸に留め置かれていた妻子も国元へ返すことを許可したことで、参勤交代は有名無実となってしまった。
諸藩の負担を減らし沿岸防備に力を入れさせようとしたのが、幕府にとって裏目に出てしまい、討幕に向けた軍備の増強につながった。
そして、それまでは鎖国によって幕府が貿易を独占していたが、開国によって諸藩も貿易で潤い、最新兵器を入手できるようにしてしまった。
明治維新後、諸藩は廃藩置県により、これまでの藩領を全て返還しているが、廃藩置県がスムーズに実施されたのは、諸藩の財政悪化も大きな理由だといえる。
大名家は藩領を手放すことで、財政問題からも解放されたのである。
明治新政府は、藩の借金である藩債や藩札も承継している。
廃藩置県時の藩債(227藩)の総計は7813万円で、その内訳は内国債7413万延、外国債400万円だった。
新政府は、このうち国内債の3487万円(47%)と外国債全額の合計3887万円を引き受けている。
諸藩はこのような巨額な財政赤字を抱えており、廃藩置県をするまでもなく、そのままほっておくと多くの諸藩が破綻していた可能性もある。
ちなみに大名家は、廃藩置県によって借金から解放され、華族として相当な俸禄を保障され、逆に豊かになった者も多かったという。
江戸幕府の財政再建政策の特徴の一つに金の含有量の少ない小判を鋳造し、減らした分の差益を得る「貨幣改鋳」というのがある。
元禄8(1695)年以来、度々行われ、平時でも江戸幕府の収入の3分の1近くを占めていたという。
幕末の代表的な貨幣改鋳は「万延二分金」で、「金が2割、銀が8割」の代物で、金貨とは名ばかりで、それまでの二分金と比較しても6割しか金が含まれておらず、4割は幕府の差益だった。
この「万延二分金」は5320万両も発行され、二分金としては江戸時代を通じて最多の発行量だった。
幕末には幕府だけでなく、諸藩も財政が悪化していた。
そこで、諸国の雄藩たちは、万延二分金による幕府の利益を横取りすべく、万延二分金の偽造品を作っている。
幕末から明治初期の間に、薩摩藩、会津藩、安芸藩などで万延二分金の贋金を鋳造していた事が判明している。
坂本龍馬も薩摩藩の贋金製造の情報を掴み、土佐藩にも贋金をつくるよう進言し、土佐藩も戊辰戦争開始後に贋金の製造を開始している。
これらの諸藩がつくった贋金は、300万両にも上り、明治に入ってから国際的な問題となっている。
諸藩が製造した贋金を西洋諸国から輸入した武器、軍艦の支払に充てていた。
明治2年7月12日、外国公使団と新政府首脳の間で、贋金問題に関する協議の場で、外国公使団は外国商人が掴まされた贋金の総額は3000万両と見積もった。
明治3年度の明治政府の国家歳出が2000万両なので、年間予算を越える額である。
新政府は、贋金の流通量はそこまで多くは無いと判断し、外国公使団の抗議を受け入れ、贋金の引き替えに応じた。
結局、日本人が交換した贋金は34万両、外国人が交換した贋金は200万両だった。
それにしても、幕末維新期に国家予算の1割もの贋金が流通していたのである。
徳川幕府が大政奉還をした時には幕府の金庫は殆ど空の状態だった。
慶應4(1868)年3月、無血開城で江戸城を占領した官軍は、真っ先に金庫を探したが、江戸城には殆ど金はなかった。
官軍は大法馬金(たいほうまきん)が1個あるとの情報を得ていたが、そんなものは何処にもなかった。
大法馬金とは、幕府が蓄財していた金の分銅のことで、1個あたり41貫(150キロ)あり、万治年間にはそれが126個あったが、天保年間には26個になり、慶應年間には1個に激減していた。
その最後の1個さえも、江戸開城の際には見当たらなかったのである。
この最後1個の大法馬金は、実際には幕臣の勝海舟が保管していて、明治元年に幕臣、旗本たちが駿府に移る際に、100俵以下の禄の者たちへ給料として与えたという記録がある。(勝海舟『解難禄』)
江戸幕府は、農民ばかりではなく、町人に対してはもっと甘かった。
というよりは、江戸の町民には税金らしい税金は課されていなかった。
天保13(1842)年に勘定奉行だった岡本成の次のような記録がある。
「町民が地税を納めるのは当然のことながら、江戸の場合は、徳川家が江戸に入った時に、寛大さを示すために地税を取らなかった。そのため江戸の町民は地税を治めなくていいものと思い込み、これまで地税を徴収できなかった」
どうやら、徳川家康が秀吉によって江戸に国替えさせられた時に、人を呼び寄せるために最初は地税を取らなかった事が、町民の既得権益となってしまったようである。
この岡本の記録が残っている時期は、江戸時代の最晩年であることから、江戸時代を通じて、江戸の町民だけは地税を払わずに済んでいたのである。
現代の日本では国民負担率が50%を超え、江戸時代の「五公五民」に戻ったと言われるが、江戸時代の現実の収穫量を考慮して検討すると実際には「三公七民」くらいだったようである。
当時は、どこの農村にも「隠し田」と言われる簿外の田があった。
隠し田には、当然年貢はかけられなかった。
あの二宮尊徳も年貢の課せられていない、あぜ道に作物を植えて、稼ぎの足しにしていたという。
江戸時代の記録では日本全国の収穫量は3222万石となっていたが、明治時代に入り、地租改正のために全国の農地を測量してみると、実は4684万石もあったことが分かったという。
名目の1.5倍もあり、相当の「隠し田」があったのである。
徳川家康の本拠地である江戸は片田舎にすぎず、秀吉の大阪とでは経済力に雲泥の差があった。
豊臣が滅んで100年後、江戸幕府は「享保の改革」を行うが、改革のテーマの一つが「大阪経済圏からの自立」だった。
徳川幕府下の江戸は首都であったにも関わらず、商工業は大阪経済圏に依存しきっていたのである。
酒の22%、木綿の34%、醤油の76%、油の76%、繰り綿(精製前の綿)に至っては100%を大阪からの輸送に頼っていた。
大阪城といえば豊臣秀吉が築城したイメージが強いが、実際には秀吉が築城する前に、織田信長が既に大阪城の築城に着手していた。
天正8(1580)年、信長に追い詰められた石山本願寺は、朝廷を動かして開城を条件に和睦し、本願寺の蓮如は雑賀の鷺森御坊に移った。
信長は石山本願寺が開城するとともに、3日間、昼夜を問わず焼き尽くし、跡地に巨大な城の建築を開始した。
大阪城の総普請奉行に命じられたのは、小牧城、岐阜城、安土城を手掛けた丹羽長秀であり、天正10(1582)年に信長が本能寺で討たれた時には、大阪城の築城はかなり進んでいたという。
その建設中の城を、さらにスケールアップして完成させたのが、秀吉の大阪城だった。
日本の銅産出の最盛期は江戸時代に入ってからだった。
銅の産出は1660年代の年間1200トン程度から1690年代には3000トン前後になったとみられている。
元禄年間には産出量が最高潮に達し、年産6000トンにも及んだという。
これは世界有数の規模であり、アダム・スミスも『国富論』の中で「日本の銅がヨーロッパの銅価格に影響を与えるかもしれない」と述べている。
秀吉、家康は各地の大名が武器の輸入の条件となっていたキリスト教布教を禁止した。
そもそもポルトガル、スペインなどの西洋諸国は、決して品性のよい交易相手ではなかったという。
ポルトガルは長崎で、日本人の奴隷を買い込み、世界各地に輸出していた。
彼らがアフリカ大陸でやっていた同じことを、日本でもやっていたのである。
天正10(1582)年にローマに派遣された天正使節団は、行く先々で目にした日本人の奴隷たちの姿に驚き、報告書に残している。
ポルトガルの宣教師たちは、武器売買や奴隷売買に加担し、その利益で病院や慈善施設をつくり、施しをエサに信者を獲得していたのである。
大阪城や聚楽第を建てた豊臣秀吉は、莫大な富を持っていたと言われている。
しかし、豊臣秀吉は直轄領を222万石しか持っておらず、250万石の徳川家康よりも少なかった。
秀吉が天下を治める事ができたのは、領地が少ないにもかかわらず、経済力があったからである。
秀吉は全国の主な金山・銀山を手中に収めていた。
慶長3(1598)年の豊臣氏の『蔵納目録』には4399枚の金、9万3365枚の銀があると記録されている。
これを石高に直すと、300万石に相当する。
つまり、この時点で、秀吉には領地からの収入220万石と合わせて520万石分と、家康の倍以上の経済力があったということになる。
金・銀が「貨幣」として世界的に認識されるようになったのは、近代になってからのことである。
それ以前は、必ずしも世界のどこでも貨幣として使用されていた訳では無い。
韓国では近代に入っても物々交換もしくは銅銭での商取引をしており、日清戦争の頃でも金銀の貨幣は使用されておらず、日本軍は現地での物資調達に苦労している。
戦国時代の日本でもまだ金銀は貨幣としては流通していなかった中、織田信長が金や銀を高額の貨幣として設定した。
永禄12(1569)年3月16日に、信長は京都、大阪、奈良の近畿地区で、追加に関して次の発令をしている。
・今後、米を通過として使ってはならない。
・糸、薬10斤以上、箪笥10棹以上、茶碗100個以上の高額取引には金銀を使うこと。
・中国からの輸入品などの取引にも金銀を使うこと。
・金銀がない場合は、良質の銅銭を使うこと。
・金10両に対して、銅銭は15貫目で交換すること。
・銀10両に対して、銅銭は2貫目で交換すること。
これは、日本の中央政権として初めて金、銀を通過として使用することを決めた法令(金銀通貨使用令)だった。
金と銀、銅銭の交換価値が明確に定められており、これも史上初めての試みだった。
金銀を高額通貨として流通させることで、銅銭の不足を解消し、安土桃山時代から日本の物流が急に活性化し商取引が活発となった。
またこの法令は、その後の日本の金融システムに大きな影響を与え、江戸時代には信長の通貨政策を手直しした金銀銅の三貨制が取られ、幕末まで続いた。
江戸時代の三貨制度は、欧米諸国の金融システムとは金銀の交換比率が若干違っただけで、基本的な仕組みは変わらなかったので、明治維新以降も欧米の金融システムにスムーズに適応することが可能だった。
室町時代から戦国時代にかけて、日本の試算の多くは寺社が所有していた。
例えば、永正5(1508)年、管領の細川高国は、日本中の「大金持ち団体」に対して、通貨に関する新しい命令「撰銭令」を出している。
撰銭令とは、欠けたり焼けたりした粗悪銭の取扱いについて定めた法で、この撰銭令を8つの団体に発布することで、全国の経済に影響をお及ぼそうとしたのである。
この戦国時代の「八大財閥」ともいえる団体は次の8つだった。
大山崎(自治都市)
細川高国
堺(自由都市)
山門使節
青蓮院
興福寺
比叡山三塔
大内義興
この八大財閥のうち、実に4つ(山門使節、青蓮院、興福寺、比叡山三塔)が寺社関連だった。
しかも、4つの寺社関連のうち、山門使節、青蓮院、比叡山三塔は比叡山関連である。
つまり比叡山は、日本の八大財閥のうち3つを占める日本最大の財閥だったのである。