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2016年12月7日水曜日

江戸幕府の財政再建政策の特徴の一つに金の含有量の少ない小判を鋳造し、減らした分の差益を得る「貨幣改鋳」というのがある。
元禄8(1695)年以来、度々行われ、平時でも江戸幕府の収入の3分の1近くを占めていたという。
幕末の代表的な貨幣改鋳は「万延二分金」で、「金が2割、銀が8割」の代物で、金貨とは名ばかりで、それまでの二分金と比較しても6割しか金が含まれておらず、4割は幕府の差益だった。
この「万延二分金」は5320万両も発行され、二分金としては江戸時代を通じて最多の発行量だった。
幕末には幕府だけでなく、諸藩も財政が悪化していた。
そこで、諸国の雄藩たちは、万延二分金による幕府の利益を横取りすべく、万延二分金の偽造品を作っている。
幕末から明治初期の間に、薩摩藩、会津藩、安芸藩などで万延二分金の贋金を鋳造していた事が判明している。
坂本龍馬も薩摩藩の贋金製造の情報を掴み、土佐藩にも贋金をつくるよう進言し、土佐藩も戊辰戦争開始後に贋金の製造を開始している。
これらの諸藩がつくった贋金は、300万両にも上り、明治に入ってから国際的な問題となっている。
諸藩が製造した贋金を西洋諸国から輸入した武器、軍艦の支払に充てていた。
明治2年7月12日、外国公使団と新政府首脳の間で、贋金問題に関する協議の場で、外国公使団は外国商人が掴まされた贋金の総額は3000万両と見積もった。
明治3年度の明治政府の国家歳出が2000万両なので、年間予算を越える額である。
新政府は、贋金の流通量はそこまで多くは無いと判断し、外国公使団の抗議を受け入れ、贋金の引き替えに応じた。
結局、日本人が交換した贋金は34万両、外国人が交換した贋金は200万両だった。
それにしても、幕末維新期に国家予算の1割もの贋金が流通していたのである。

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