徳川幕府が大政奉還をした時には幕府の金庫は殆ど空の状態だった。
慶應4(1868)年3月、無血開城で江戸城を占領した官軍は、真っ先に金庫を探したが、江戸城には殆ど金はなかった。
官軍は大法馬金(たいほうまきん)が1個あるとの情報を得ていたが、そんなものは何処にもなかった。
大法馬金とは、幕府が蓄財していた金の分銅のことで、1個あたり41貫(150キロ)あり、万治年間にはそれが126個あったが、天保年間には26個になり、慶應年間には1個に激減していた。
その最後の1個さえも、江戸開城の際には見当たらなかったのである。
大法馬金とは、幕府が蓄財していた金の分銅のことで、1個あたり41貫(150キロ)あり、万治年間にはそれが126個あったが、天保年間には26個になり、慶應年間には1個に激減していた。
その最後の1個さえも、江戸開城の際には見当たらなかったのである。
この最後1個の大法馬金は、実際には幕臣の勝海舟が保管していて、明治元年に幕臣、旗本たちが駿府に移る際に、100俵以下の禄の者たちへ給料として与えたという記録がある。(勝海舟『解難禄』)
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