金・銀が「貨幣」として世界的に認識されるようになったのは、近代になってからのことである。
それ以前は、必ずしも世界のどこでも貨幣として使用されていた訳では無い。
それ以前は、必ずしも世界のどこでも貨幣として使用されていた訳では無い。
韓国では近代に入っても物々交換もしくは銅銭での商取引をしており、日清戦争の頃でも金銀の貨幣は使用されておらず、日本軍は現地での物資調達に苦労している。
戦国時代の日本でもまだ金銀は貨幣としては流通していなかった中、織田信長が金や銀を高額の貨幣として設定した。
永禄12(1569)年3月16日に、信長は京都、大阪、奈良の近畿地区で、追加に関して次の発令をしている。
永禄12(1569)年3月16日に、信長は京都、大阪、奈良の近畿地区で、追加に関して次の発令をしている。
・今後、米を通過として使ってはならない。
・糸、薬10斤以上、箪笥10棹以上、茶碗100個以上の高額取引には金銀を使うこと。
・中国からの輸入品などの取引にも金銀を使うこと。
・金銀がない場合は、良質の銅銭を使うこと。
・金10両に対して、銅銭は15貫目で交換すること。
・銀10両に対して、銅銭は2貫目で交換すること。
・糸、薬10斤以上、箪笥10棹以上、茶碗100個以上の高額取引には金銀を使うこと。
・中国からの輸入品などの取引にも金銀を使うこと。
・金銀がない場合は、良質の銅銭を使うこと。
・金10両に対して、銅銭は15貫目で交換すること。
・銀10両に対して、銅銭は2貫目で交換すること。
これは、日本の中央政権として初めて金、銀を通過として使用することを決めた法令(金銀通貨使用令)だった。
金と銀、銅銭の交換価値が明確に定められており、これも史上初めての試みだった。
金と銀、銅銭の交換価値が明確に定められており、これも史上初めての試みだった。
金銀を高額通貨として流通させることで、銅銭の不足を解消し、安土桃山時代から日本の物流が急に活性化し商取引が活発となった。
またこの法令は、その後の日本の金融システムに大きな影響を与え、江戸時代には信長の通貨政策を手直しした金銀銅の三貨制が取られ、幕末まで続いた。
江戸時代の三貨制度は、欧米諸国の金融システムとは金銀の交換比率が若干違っただけで、基本的な仕組みは変わらなかったので、明治維新以降も欧米の金融システムにスムーズに適応することが可能だった。
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