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2016年8月12日金曜日

『昭和天皇実録』の中に、昭和21年8月14日に、御所内の花陰亭で終戦一周年を迎えての座談会が催されたという記述がある。
列席したのは、東久邇宮稔彦王、鈴木貫太郎、幣原喜重郎といった歴代の首相、吉田茂首相、石原湛山蔵相など時の閣僚だった。
そこで冒頭、昭和天皇は以下のように述べられたと記載されている。
「最初に天皇より日本の敗戦に関し、かつて白村江の戦いで敗戦を機に改革が行われ、日本文化発展の転機となった例を挙げ、今後の日本の進むべき道について述べられる」
白村江の戦いとは、663年に大和と百済2万7千の連合軍が、唐と新羅によって僅か2日で全滅させられた決定的な敗戦である。
この敗戦は日本を一変させ、初めて国防システムの必要性に目覚め、大宰府防衛のための山城、水城を築き、対馬から瀬戸内海を経て畿内に至るまで城塞を連ねて、のろしによる通信網を整えた。
同時に唐文化を猛烈に吸収し、律令制を取り入れ、半世紀後には平城京を樹立する。
ポツダム宣言受諾の「聖断」において、「将来にまた復興の光明」を望んだ昭和天皇は、敗戦をバネにして自己改革を成し遂げ、最盛を実現した自国の歴史を見据えていたのである。
「政戦」(just war)は、「聖戦」(holy war)とは異なる。
「聖戦論」は戦争の目的の正当性に関する議論で、そこでは戦争に神聖なる大義が存在するかどうかが問われる。
十字軍や宗教戦争の例を引くまでもなく、神の義によって正当化された戦争は手段に期間にも際限がなく、無慈悲な殲滅戦が長期化することが多い。
20世紀以降の国歌総力戦、イデオロギー戦争なども聖戦的な側面が見られる。
これに対して「正戦論」は戦争の目的ではなく、「侵略か、自営戦争か」といった開戦の手続きや「非戦闘員殺傷禁止の原則」などの戦闘の方法の正当性に注目する。
「正戦論」とは戦争にもルールがあり、それに則っていなければ不正となるという事実認識を示すものであり、戦争という非常事態にあってもなお、公正さや規範性や人道を追及しようという人間の本性に根差したものである。
従って「正戦論」は戦争に関する道徳的審判は可能であり、戦争行為も法によって限定できるとする。
戦争倫理学の世界的権威であるマイケル・ウォルツァーの『正しい戦争と不正な戦争』は、米合衆国陸軍士官学校で教科書に採用されている。
原爆使用を倫理的に断罪する本が、エリート士官養成のテキストとなっている。

1940年9月27日に締結された日独伊三国同盟は、「現に欧州戦争又は日支紛争に参入しておらざる一国」に攻撃された時に三国が相互に援助すべきことを規定しており、一見すると米ソが対象と思えるが、第五条だは独ソ不可侵条約をはじめとする対ソ関係の現状維持が確認されていた。
すなわち、日独伊三国同盟は対米同盟であり、ソ連は三国同盟の仮想敵国ではなかったのである。
さらに付属文書ではドイツが日ソ両国の「友好的了解」を増進し「周旋の労」をとると規定されていた。
つまり、この条約は日独伊とソ連の四国提携が目指されていたのである。
高倉健が出演している名画の中でニュー東映が制作した「二・二六事件 脱出」(1962年)の原作となった小坂慶助の『特高 二・二六事件秘史』は、憲兵隊の内部資料を読みやすく書き直したものと思われる当事者手記である。
著者の小坂氏は、当時、麹町憲兵分隊の特高主任(班長)で、岡田啓介総理の救出を指揮した人物である。
本書を読むと憲兵隊にとって二・二六事件が晴天の霹靂ではなかった事が伝わってくる。
規模はともかく、皇道派将校が「何かやるな」とという感触をつかんでいたのである。
具体的な情報も小坂氏は得ていた。
「2月19日の朝、栗原中尉一派が18日の夜、赤坂の某鳥料理屋に密かに会合して、25日頃を期して重臣襲撃を決行する、という情報を三菱本館秘書課から知らせて来た。
当時、三井、三菱の情報網は完璧に使い程に、洗練されていた組織を持っていた。金の力に物をいわせ、政党、諸官庁、新聞通信社、待合、料理屋を始めとして、左右両翼団体から浪人、市井のいわゆるゴロに至るまで、息のかかっていない処とてない」と書かれている。
当時、三井、三菱をはじめとする財閥は右翼によるテロの標的とされており、財閥は身を守るために徹底して情報を集めていた。
財閥は暴力装置は持っていないので、特高憲兵は財閥経由でかなり高度な情報を入手していたのであろう。


特高 二・二六事件秘史
蒋介石は1920年代から軍事援助を受けていたドイツとの関係を深め、1933年にナチスの政権奪還後もゼークト参謀総長を軍事顧問に招いて軍の近代化を進めるなど、戦争準備を進めた。
中国からは希少金属のタングステンが提供され、ドイツの軍備拡大に大きく貢献している。
日独伊三国同盟締結後も、ナチス・ドイツは第三国経由で中国への軍事援助を1941年7月まで続けている。
こうした事実は、中国では、特に台湾では長年、研究上のタブーであった。