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2016年9月27日火曜日

人の思考を知るには、この人かヒイキにしている著者の作品を知るのが一番の近道である。
2014年12月に厚生労働省が発表した「平成26年労働組合基礎調査の結果」(2014年6月30日現在)によると、日本労働組合総連合会の労働組合因数は984万9000人、組織率は17.5%となっている。
2013年と比較すると、労働組合員数は2万6000人ほど減少し、組織率も0.2ポイント低下しており、労働組合員数の減少傾向は止まらない。
2012年の高齢者雇用の「非正規の職員・従業員」は179万人となり、高齢雇用者の69.1%を占めている。
つまり高齢者の働き方は、殆どが非正規雇用であり、働いた分だけ供与が支払われるケースが多い。
日本では失業率と自殺率の因果関係が強く指摘されており、失業率が高い時期は、自殺率も高いという相関関係にある。
2012年の奨学金利用者は大学生の52.5%と半数を超えている。
奨学金は給付型ではなく貸与型のうえに、90年代は8割が無利子貸与だったのが、現在は7割以上が有利子貸与で借りている。
2012年時点で、日本学生支援機構の奨学金返還を延滞した人は33万人を超え、滞納額は900億円にも上っている。
学生が親からもらえる家計からの給付は、この10年間で150万円~160万円だったのが、120万円へと40万円下がっている。
仕送り額は、1990年代半ばは、6割以上が毎月10万円以上だったのが、現在は10万円以上は3割を切っていて、むしろ5万円未満が増えている。
首都圏の私大・短大生を対象にした調査では、仕送り額から家賃を除き、30日で割った「1日当りの生活費」は、1990年の2460円から2014年には897円となっている。
五味川純平の作品では『人間の条件』が有名で小説としてもよくできているが、『戦争と人間』は、註が非常に役に立ち勉強になる。
『戦争と人間』澤地久枝が、五味川の資料集めを担当し、本編が五味川、注釈担当が澤地と分担し、二人の合作のようなところがある。
戦艦大和の最期の出撃での乗組員は3332人で、うち戦死3516人だった。
護衛についていた巡洋艦・駆逐艦の乗組員が約3890人で、うち戦死981人だった。
この「大和」特攻の戦死者の合計は、4037人だった。
ちなみに、特攻と呼ばれた作戦全体で亡くなった人は、海軍の特攻機で戦死した人が2632人、陸軍機では1983人、人間魚雷「回天」特攻隊では80人、その回天訓練中に殉職したのが16人。
人間ロケット「桜花」特攻隊が56人、「桜花」を積んだ一式陸攻が全て撃墜されていて、これで死んだ人が372人。
合計で5139人が、いわゆる特攻隊として亡くなった人のほぼ総数となる。
つまり、特攻の死者全部を合わせた数に匹敵する戦死者が、大和の特攻で出ているのである。
あの非合理な大和の1回の出撃で、いかに多くの無駄死にをさせたかということである。
「敵編隊見ユ」という時に、何万メートルも先の敵編隊に向かって「武蔵」も「大和」も主砲を撃った。
主砲の前方の艦橋の両舷には機関銃隊がフードを下部って並んでいて、主砲が発射されるときには、ピーッと笛が鳴り、機関銃隊は主砲の爆風を避けるために艦内へ退避することになっていた。
ところが武蔵最期の時は、その笛がなぜか聞こえず、艦首の主砲を撃ったらその両舷の機関銃隊が衝撃波で全滅してしまったという。
アメリカ軍にはそれが見えていて、他の艦は狙わずに武蔵だけを狙い、しかも機関銃による反撃がない艦首に集中攻撃をかけたので、武蔵が沈みそうになっている写真は、艦首から沈みそうになっているのである。
第二次世界大戦時に使用された日本独自の兵器で有名なのは、明治38年に開発された「三八式歩兵銃」である。
つまり、日露戦争で旅順港が陥落したのが、昭和38年1月、奉天会戦が昭和38年3月で、それ以降、陸軍は殆ど実戦を経験していないため、山ほど製造した銃と銃弾が余っていたので、なくなるまでこの「三八式歩兵銃」を使用したのである。
殺傷能力が低い銃だったので、敵側には戦死者よりも負傷者が沢山出るが、米軍は負傷兵を見捨てないので、後方へ送るために一人の負傷兵に三~四人の兵が付いていくことになり、それだけ戦力を弱める効果があったという。
実際に太平洋戦争中にペニシリンができて、負傷兵が治るので、ますます放置せずに後送することになり、確かに米軍の力をそぐ効果はあったかもしれない。
ちなみに日本には、ペニシリンは無かったので、負傷兵が出たら前線に置きっぱなしだった。
ソ連軍も負傷兵は放置して進んでしまうので、日本の「三八式歩兵銃」の効果は低かった。
海軍は陸軍と比べて合理主義だと言われたりするが、決して合理的な集団ではなかった。
例えば飛行機のエンジンは光式と寿式、零式戦闘機の機関銃は恵式、軍艦のジャイロコンパスは須式などと記している。
須式はスペリー、毘式はヴィッカース、ホ式はホチキス、光式はライト、寿式はジュピター、恵式はエリコンと、全て外国技術のライセンスの名前だった。
つまり、太平洋戦争というのは、アメリカの技術とアメリカの石油で、アメリカに挑んだ戦いだったのである。
海軍が本当に合理的な考えができるならば、アメリカとは戦争はできないのが分かるはずである。
陸軍参謀本部は、企画立案から評価まで自分達でやっていたので、「成功」と「大成功」しかなく、失敗はあり得ない組織になってしまった。
失敗を認めない例として、ノモンハン事件の停戦協定が昭和14年9月に結ばれた後、翌昭和15年1月にできた「ノモンハン事件研究委員会」の結論は、火力に対しこれからますます精神力を強くすることを要す、というものだった。
自分達の立案した差郡で非常に苦戦はしたけれども、敵の圧倒的な火力に対して精神力を持って白兵突撃をやって、見事に互角に戦ったという結論だった。
しかも、昭和の日本陸軍の参謀は、負けてもクビにさえならず、どんなに負けても参謀に責任はなかった。
責任を取らせるとうろたえたり、いじけたりして自由な発想ができなくなるからだという。
斬新な作戦構想を練るのが参謀の任務であって、その作戦を採用した指揮官が全責任を取るシステムだった。
ノモンハンでも、関東軍先任参謀の服部卓四郎と作戦参謀の辻政信は、一度左遷されるが、昭和16年の夏には二人とも参謀本部の作戦かに戻っている。
しかし、植田謙吉関東軍司令官は、責任を取らされて退役になり、現場で直接指揮を執った指揮官は、撤退の責任を負わされ、みんな自決している。
陸軍では、軍法会議で敗因を究明するのではなく、自決を強要したという。
日本陸軍の暗号技術が飛躍的に進んだのは、1923年にポーランドから暗号将校を招聘して研究を始めるようになってからである。
それまでは、ワシントン軍縮会議での日本の主力艦の最大限トン数などが、アメリカ側に筒抜けになっていた。
日本の暗号は、アメリカ陸軍情報部第八課(MI-8、通称ブラック・チェンバー)によって解読されていた。
MI-8の課長のハーバート・O・ヤードリが暴露本『ブラック・チェンバ』を書いたことで、日本はその事を初めて知った。
ヤードリは、この件で国家機密漏えい罪に問われて、アメリカに居づらくなり、重慶へ行って第二次大戦中は日本軍の暗号を解読する仕事をしている。
その後、ソ連の暗号の強度が非常に上がって全然解読できなくなり、日本陸軍はポーランドと提携して暗号を改良し、精度が高くなり、太平洋戦争が始まってから2年くらいの間は、日本の暗号は読み取るのが難しいものになっていた。

ブラック・チェンバ―米国はいかにして外交秘電を盗んだか? (1931年)

2016年9月26日月曜日

西南戦争で参謀重視の体質を陸軍にもたらした一方で、新政府は暗号技術を随分と磨いていた。
土佐が薩摩に呼応して立つのではないかと、土佐に対して情報工作をし、スバイを山ほど送り込んでいたという部厚い資料が、防衛省防衛研究所戦史研究センターに残っている。
戦後、自衛隊で暗号の組み立てを担当していた長田順行氏の『西南の役と暗号』には、「西南の役は、有線通信網の整備が着々と進められている最中に起こった。開戦準備中に東京ー京都ー熊本間に有線電信が整備されていたことは、情報の収集、部隊の集中移動、警報の伝達などに計り知れない効果があった」と書かれている。
この暗号戦の総大将は、なんと西郷隆盛の弟の西郷従道だった。
このように当初は、情報を大事にしていたにも関わらず、その後は日本陸軍も海軍も重要視しなかった。
日本海軍にとって大きかったのは、大正10年のワシントン海軍条約で、イギリス5、アメリカ5、日本3という艦艇保有比率が決まったことである。
慌てて昭和3年に海戦要務令を第三次改定するが、昭和5年にロンドン海軍軍縮条約で、さらに艦船の数が制限されてしまう。
そこで出て来たのが、軍縮体制の破棄と更なる大艦巨砲主義への邁進であり、戦艦の数が制限されるのならば巨大な艦を造って質で対抗しようという流れになった。
昭和9年12月にはワシントン軍縮条約の破棄を通告するが、同年10月には戦艦大和の建造案が提出されている。
大和は艦幅が40メートルで、主砲が46センチだった。
アメリカの戦艦はバナマ運河を通るために幅が32メートルまでに制限されていたので、主砲も40センチが精一杯だった。
アメリカの戦艦の砲弾が届かない距離から、大和が主砲をぶっ放せば米艦隊は殲滅できるという、見当違いの方向に進んでしまった。
つまり、日本海軍には世界戦略は無かったのである。
本気でアメリカを征服するならば、パナマ運河を通って、ワシントン、ニューヨークを叩くしかない。
しかし、大和も武蔵もバナマ運河を通れず、あくまでも日本の勢力圏を防衛することしかできない作戦を立てていたのである。
そして昭和12年に、全ての軍縮条約から脱して、いよいよアメリカとの決戦に備えて海戦要務令を改定し「対米漸滅邀撃作戦」を定めてから4年後に日米の戦闘が始まる。
昭和15年には零戦も存在し、航空戦力も潜水艦もその技術は飛躍していたが、海戦要務令の改定は、それ以上は行われないまま戦争に突入していく。
第一次大戦では、戦艦同士の艦隊決戦は殆どなかったが、唯一といっていいのが、1916年のユトランド沖海戦だった。
デンマークのユトランド半島沖で、ドイツ海軍とイギリス海軍がぶつかり、ドイツの巡洋艦によってイギリスの戦艦が大打撃を受け、速力と運動性に優れる軽量艦による奇襲作戦の重要性が認められたのである。
そこで日本海軍は大正9年に開戦要務令の第二次改正を行う。
潜水艦や軽快部隊による先制、夜襲などの新しい作戦が盛り込まれたが、戦略そのものは「敵主隊の攻撃」と、全く変わっておらず、50点の戦艦を狙うというものだった。
日本海軍は、兵器の面で次の主役はバカでかい戦艦ではなく、航空機や潜水艦など、大量生産、大量投入する兵器の時代になるという方向性がはっきりしていたのに、キャッチアップができなかったのである。
海戦において技術の進歩が戦い方を一変させるのに、日本海軍は付いていけなかった。
第一次世界大戦では、「通商破壊」とそれに対するシーレーン防衛が、重要な戦略となった。
イギリスに対して海軍力で劣るドイツは、潜水艦や軽巡洋艦で、イギリスの輸送船を攻撃する。つまりシーレーンを攻撃することで、兵力、物資に多大な影響を与えるだけではなく、イギリス側はシーレーンの防衛に相当の戦力を割かねばならなくなった。
第二次大戦では、アメリカも日本に対して、徹底的な通称破壊を行っている。
ところが日本海軍では、通商破壊という発想は全くなかった。
理由は、海軍には戦闘における各艦の論功行賞をハッキリさせるための点数制があり、戦艦や空母を沈めれば50点、巡洋艦なら30点、これに対して輸送船は5点しかなく、輸送船を攻撃するインセンティブが無かったのである。
官僚体質を持つ陸軍に対して、合理的でスマートなイメージがある海軍だが、陸軍に負けず劣らず、組織の存続を第一義に置いていた。
それが最もよく現れていたのが、海軍の作戦方針である「海戦要務令」で、この変遷を見ていくと、日本海軍がいかに状況の変化に対応しきれなかったかが分かる。
海軍の「海戦要務令」は戦い方のマニュアルであり、陸軍の「統帥綱領」とは考え方は異なる。
陸軍の「統帥綱領」には、統帥とは指揮官が軍を指揮して運用することについて、つまり「国体」を守るために自分達はどのような機能を果たすかについて書かれている。
海軍は陸軍と違い組織の規模が陸軍の10分の1以下と小さいので、自分達が国家の骨幹になろうとは考えず、技術者集団だから統帥綱領といったものを全く考えていない。
ちなみに、終戦末期の昭和19年頃に海軍版の「統帥綱領」を作ろうとした形跡はあるが、完成しなかった。
海軍は戦闘に勝つことだけを考えていたが、海戦要務令を改正したと思ったら、世界で新しい動きが起き、いつも後手に回ってしまい、海軍は最後まで戦い方が分からなかったのが事実である。
最初の開栓要務令は、明治37年の日露戦争に備えて作られている。
日本海海戦の歴史的大勝利は、海戦要務令で闘って買ったとされてきたが、むしろ参謀の秋山真之による運用面の改革が大きかった。
例えば、「敵艦見ユ」を「タタタタ」、「ナナナナ」は「敵を攻撃せよ」、「カカカカ」は「敵と接触を保ちこれを監視せよ」とするなで、命令伝達のスピードアップを図った。
しかし、日本海海戦の勝因は、戦闘艦同士の勝負で勝ったことと、敵艦隊の進路をふさいで一斉砲撃を浴びせる「丁字戦法」で勝ったということになってしまった。
明治43年の海戦要務令の第1回改正を経て、大正元年に本格的な改正を加え、日本海海戦の展開そのままを、戦い方のスタンダードに決めてしまい、艦隊決戦思想に縛られて、太平洋戦争に突入してしまう。
派閥の「閥」という字は門構えの中に伐と書く。
伐とは戈(ほこ)で人を撃つの意味で、すなわち戦いである。
「馬上天下を取る」という言葉通り、戦に勝って凱旋した者が家の門のところに、功名を挙げたことを麗々しく書いた紙を張り出す。
これが閥なのである。
そこで派閥とは、戦いに勝って凱旋した者を中心にして集まった小グループのことで、すごく団結力が強い。
だから派閥が崩れると混乱が起こり、統率がきかず、下剋上が起きやすいということになる。
外務省には「事務連絡」という、ですます調で書く電報がある。
全くの事務的な連絡であり、正式な外交連絡ではない。
しかし、実は危ない話は全て「事務連絡」でやりとりされている。
更にもっと凄い「部内連絡」というのもあって、青色の紙の特殊な電報で、この存在を知らないまま外務省を去っていく人も多いという。
スパイ事件、大臣の悪口、他省庁の役人を陥れること、幹部の不祥事などに関するもので、一切存在しないことになっている電報で、特殊暗号を組んで作られる。
危ない電報や情報の責任者は、本省では局長で、その上の統括責任は官房長が負うことになっているが、実質的には官房長が何かを指示することはなく、不祥事が起きた時に責任を取るだけである。
だから実質の責任者は局長である。
但し、局長が電報の発信を止めることはまずないので、本当の責任者は課長であり、結局のところ大変な権限の委譲が行われている。
そして気の弱い課長だと、30歳前後の課長補佐や事務官に牛耳られてしまう。
そうやって下剋上が起きるのである。
ちなみに、在外公館では大使が権限者となる。
日本陸軍には、派遣参謀という制度があり、参謀総長の命を受けた参謀が、前線に派遣されて陣頭指揮を執ることができた。
派遣参謀は中佐くらいにもかかわらず、将官である軍司令官よりも現場の参謀長よりも遥かに上の権限を持っていて、参謀の勝手なふるまいが許されるようになってしまった。
しかも失敗しても参謀は責任を取らなくてもよかった。
最悪の例が辻政信で、中央に返り咲いた辻は、ガダルカナルの戦いでもビルマ戦線でも、派遣参謀の地位を利用して愚かな作戦を強要した。

2016年9月25日日曜日

西南戦争の経験から、日本が学んだ近代的な軍隊の在り方とは、総大将は軍事を知らなくてもいい、素人でもよく、幕僚がしっかり把握すれば、あとは戦略、戦術によって勝つ事ができるというものだった。
そこにドイツ型の参謀本部システムが入ってくる土壌ができるのである。
ナポレオン以来、最強と言われたフランス軍を1871年に普仏戦争で破ったプロイセン軍の知名度が急上昇するのが明治4年にあたり、ドイツ軍が強い理由が、「近代ドイツ軍の父」と呼ばれるモルトケ率いる参謀本部だった。
日本の陸軍はモルトケの弟子にあたるメッケルを招聘し、軍隊の近代化を急いだ。
モルトケの参謀本部は、部隊を指揮することはせずに、作戦を立てる部門として独立したもので、作戦(スタッフ)と部隊指揮(ライン)を分けるのが特徴だった。
しかし日本はこの参謀本部を独特の形で発展させてしまい、参謀の中で有望とみなされた人間が実質的にはラインになって軍を指揮してしまう。
総大将よりも参謀重視が日本の軍隊のスタートとなった。
日本の軍隊は明治の初めに、天皇を守るための新兵として、薩摩藩と長州藩を中心に兵隊を集めてできた。
それまでは天皇を守る軍隊は無かった。
幕末には各藩に藩士、庶民からなる騎兵隊のような集団もあったが、これらは天皇の軍隊ではなかった。
彼らが最初に明治政府軍として、旧幕府側勢力軍と戦ったのが戊辰戦争であり、有栖川宮熾仁親王という公家を総大将にして、長州藩出身の山県有朋以下の参謀たちが支えて戦いに勝った。
この時はまだ天皇の軍隊ではなかった。
その後、薩長を主力として全国から兵を募り、武器の扱いや組織での動き方を訓練した兵隊を作るため、1873年に徴兵令施行として実施され、ようやく近代的な軍隊の体制が整った。
しかし、この徴兵令は武士の完全廃業を意味し、士族の反乱が相次いで起こり、ついに西南戦争が起きてしまう。
この西南戦争でも総大将を有栖川宮熾仁親王に、日本最強の兵といわれた薩摩軍を相手に戦う、天皇の軍隊として初めての戦闘だった。
薩摩軍は兵力3万人余、小銃1万1千挺、大砲60門という精鋭の大軍だった。
だから勝海舟は、薩摩軍が勝ち政府軍が負けて維新はもう一度やり直しになると言っていたくらいだった。
明治政府は大金をはたいて最新式の兵器を集めた。
西郷軍の主力が着火に手間取る旧式のエンフィールド銃だったのに対して、新型スナイドル銃の他、射程距離・貫通力ともにそれを凌駕するヘンリー・マルチーニ銃、ガトリング砲、アームストロング砲という大砲まで投入した。
ちょうど南北戦争が終わったばかりのアメリカで、武器が山ほど余っていて安く買えたのである。
格安といいながら、明治10年の国家財政支出が4800万円なのに対し、戦費は4156万円もかかっている。
結果的に物量と輸送力に助けられて政府軍が勝利する。
戦前の戦時国際法に関する日本の認識は極めて高かったはずである。
大学の基本的な教科書になっていた横田喜三郎の『国際法』の半分は、戦時国際法の記述だった。
反対に戦後になると、外交官試験の参考書には戦時国際法がなくて、戦時国際法は防衛大学なとで細々と教えられているだけとなった。戦争をしないという前提だからである。
戦前は、条約の重要性や宣戦布告の手続き、それに戦時国際法と平時国際法の切り替わりなど、外交官は細かい規則を全部覚える必要があった。
国際法の重要性を示す例として、1928年に結ばれたバリ不戦条約に実質的な効果があったことが挙げられる。
これがあるから、ヒトラーもむやみにズデーテン地方を攻めることができず、戦争をしないためにズデーテンを併合するしかない、という理屈を考え出した。
つまり平和を考えないと戦争ができないことになったのである。
それまでは手続きさえ踏めば、いつでも戦争を仕掛けても構わなかったが、戦争が違法となったことで、平和を維持するためという理屈をさけないと戦争ができなくなったのである。
一夕会は長州閥を追い出して自分達の天下を取りつつあった頃に、二つに分裂してしまう。
分裂の原因には、対ソ連への考え方の違いがあった。
永田鉄山は国家総動員法を作って日本をどんな戦争にも対応できるように国防国家にした方が良いと説き、それが「統制派」の考え方だった。
一方、小畑敏四郎は、ソ連が五カ年計画に次ぐ五カ年計画でどんどん強力になっていく前に、早めに叩いた方が良いという、「作戦の鬼」にしい軍事優先だった。
小畑は荒木貞夫陸軍大臣の秘蔵っ子だったので、国家統制より荒木の唱える天皇親政によって国を治めるという「皇道派」の中心人物となっていく。
この皇道派に繋がる青年将校が二・二六事件を起こしたことで粛清され、統制派が陸軍を牛耳るようになっていく。
皇道派は統制派によって「東京の十里四方以内には入れない」とまで言われるほど、全員が中枢から遠ざけられる。
のちにヤルタ会談後にソ連が参戦するという機密情報を東京に送ったスウェーデン駐在武官・小野寺信は皇道派に属していたため、その最重要情報が握り潰されたといわれている。
外務省は、入省して直ぐに語学研修で語学スクール(派閥)に分かれて、外国に赴任すれば同期同士のヨコの連絡が取りにくくなるので、水平的な派閥ができなくい組織である。
しかし、満州事変の頃に台頭してきた外務省革新派と呼ばれる世代は、採用人数が多かったためヨコの繋がりができやすかった。
第一次世界大戦で戦勝国となった日本は、国際連盟の常任理事国となり、様々な外交事案に対応しなくてはならなくなったのと、在外公館の数が増えて、外交官の人数を増やす必要が出てきて、採用人数を増やした。
日露戦争が始まった1904年に約250人だった在外公館職員(判任官以上)は、国際連盟が成立した1920年には約2倍になり、2年後には約700人にまで増えている。
本省職員も増えており、第一次世界大戦終了の1918年までは100人前後だったのが、2年後には一挙に2倍となり、1922年には300人近くにまで達している。
このように一挙に人が増えたため出世が遅れ、人事ほの不満へとつながった。
そして彼ら革新派が担ぎ出したのが、日独伊三国同盟を推進するイタリア大使の白鳥敏夫だった。
白鳥は満州事変の頃には、外務省情報部長というポストに就いていた。この情報部というのは、インテリジェンスではなく、日本の立場を宣伝するプロパガンダ部門だった。
革新派は満州問題で日本が孤立する中、幣原外相が主導した英米中心の協調外交に対抗して、独自の外交路線を主張するようになっていく。
欧米に対しての強硬路線は「皇道外交」と称され、陸軍と歩調を合わせて、三国同盟へと邁進していくようになるのである。
戦後の外務省は、同期の結びつきを極力弱めようとし、現在でも親睦会の枠を超えて同期が集まって政策的な話し合いをするのを嫌がるという。
国家総動員法を最初に考えたのは、陸軍きっての秀才だった永田鉄山だった。
永田は1935年に統制派の頭目と目されて、相沢三郎中佐に刺殺されてしまうが、陸軍の中心にいて徹底的な改革を行った人物である。
そして、ゼネラリストとしての才能を発揮して、戦争は軍隊だけでやるものではなく国家が総力を挙げてやるもの、だから国民の士気もまた戦力だ、という考えに辿り着く。
大正の中頃には『国家総動員に関する意見』という克明に研究した冊子を出している。
こうした永田の考えに共鳴した陸軍の中堅・若手将校が「一夕会(いっせきかい)」と呼ばれる派閥を作り、陸軍中央で勢力を伸ばしていくのである。
日米関係の緊張が最高潮に達していた1941年12月26日(日本時間27日)に、アメリカの春国務長官から突き付けられ、日本が対米英蘭開戦を決意した「ハル・ノート」の中に「Chinaから撤兵せよ」という条件があった。
この「China」がどの範囲を指すのか、日本政府も軍部も当然、満州が含まれていると考えた。
ところが、戦後になってアメリカから「満州は含まれていなかった」という説が伝わってきた。
それを聞いた開戦当時の国務大臣・企画院総裁の鈴木貞一中将は、「そんなバカな! もしそうであったなら戦争に踏み切る必要は無かった」と天を仰いで言ったという。
アメリカは満州国を承認していなかったので、当然のこととして満州国は含まれていると、東条内閣は判断したという。
言葉というものが、外交的に正しく判断できるかどうかで、歴史は変わるのである。
ポツダム宣言のバーンズ回答で、バーンズからの文書には、「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は・・・連合国軍最高司令官にsubject toする」とあり、この「subject to」をどう訳すかが問題になった。
そのまま訳せば、「隷属する」となるが、それだと軍部が収まらないので、外務省は意訳して苦し紛れに「制限の下に置かれる」とした。
また「国連」として、日本では定着した「United Nations」も、本来は第二次世界大戦の「連合国」を表すのに、日本の外務省は「国際連合」という言葉を使い、だいぶイメージが変わっている。
しかし「国際連合」という訳語を使ったことで、日本では実態以上に国際連合が政治的に中立なものと認識されてしまった。
本来の「連合国」としていれば、我々は敵国側だったので、あの戦争は戦後も我々を拘束している、ということを理解できたかもしれない。
1945年9月2日に、東京湾に錨を下したミズリー号での調印の時、マッカーサーは短い演説をしている。
外務省による正式な記録は、随行員だった加瀬俊一が訳したもので、「自由と寛容と正義を実現する世界の樹立せられんことを期待す」が一般的に参照される。
しかし、この演説の訳し方には、「自由と寛容と公正さへの願いが叶えられる世界となりますように」ともう一つ有り得る。
原文のJusticeを「正義」と訳すか「公正」と訳すかで、外交ではよく問題になる。
日本語のニュアンスでは、正義と公正は必ずしも同じではなく、「正義の味方」とは言うが「公正の見方」とは言わない。
公正取引委員会はあるが、正義取引委員会はない。
正義の方が規範原理があって倫理的な意味がより強区ね日本語の場合、公正というのは「公平」に近い。
justiceにあたるロシア語の「スプラベドゥリーボスチ」にも、正義と公正の両方の意味がある。
北方領土の交渉で、1991年9月にエリツィン大統領から海部総理宛てに親書が届き、「戦勝国と敗戦国の区別なく、法と<スプラベドゥリーボスチ>の原則によって、北方領土問題を解決したいと思いますけと書いてあった。
これを提案したのはクナッゼというロシア外交官の中でも有数の日本専門家であり、マッカーサーの演説を意識していると思われる。
日本政府は、エリツィン書館を「法と公正」と訳していたのを、ある時期から「法と正義」とするようになった。
「公正」とすると、現在、北方領土に住んでいるロシア人の人権を保全するというニュアンスが出てくるからで、「法とと正義」であれば、法的な解釈が正義だという意味が強くなる。
このようにジャスティスは正義と公正のどちらに訳すかで、意味が異なることから、外交上では注意が必要なキーワードとなる。
日本の兵隊を捕虜にして、シベリアに連行して労働力にすることを決めた根拠は、ヤルタ会談でのドイツの賠償について取り決めた条項の中にあった。
米英ソが議定書の中で、「ドイツは、戦争中に連合国に対して生ぜしめた賠償を、現物をもって賠償しなければならない」とあり、その現物賠償に3つの方式が挙げられ、その一つとして「(c)ドイツの労働力の使用」とはっきりと記されていた。
つまり、1945年2月のヤルタ会談の時点で、ドイツ人捕虜を労働力として使うことを英米も認めており、それが「現物賠償」の一つとしてポツダム宣言に残り、日本にも適用されてしまった。
ソ連三大劇場の一つであるウズベキスタン・タシュケントのナヴォイ劇場は、日本人捕虜が建てたものである。
シベリア抑留された日本軍には、元大工もいれば、元左官もおり、建築工事の技術者は不足しておらば、そして真面目に働いた。
そのナヴォイ劇場は、1966年4月26日にタシュケントを襲った地震で、他の多くの建物が倒壊したにもかかわらず、もびくともせず残っていて、市民の避難場所になったという。
占守島は、千島列島の最北東端に位置する豆粒みたいな小さい島だが、その先には千島海峡をはさんでカムチャッカ半島、その東にはアリューシャン列島に至る。
だからこの島に置かれた日本の陸軍部隊の仮想敵国はアメリカだったが、1945年8月18日にソ連軍が攻撃を仕掛けて来た。
この日から21日まで4日に渡ってソ連との死闘が繰り広げられた。
実際に占守島では日本軍は奮闘しており、日本側の資料によるとソ連軍は3千人の死傷者を出したという。
その後、ソ連軍は手島列島へ進軍し、南千島の得撫島、北方四島が完全占領されたのは9月3日のことだった。
もし占守島で、ソ連軍を足止めできていなかったら、スターリンの思惑通り、北海道もソ連に占領されていたかもしれない。
ソ連の占守島へのこだわりは、クリル諸島という言葉が示す範囲にも関わっており、日本がいう北方領土とロシアのいうクリル諸島の範囲は異なる。
ロシアのいうクリル諸島とは、占守島はもちろん、北方四島までを範囲として指している。
ちなみにヤルタ会談では、ソ連の参戦と引き換えにクリル諸島がソ連に引き渡されることが英米との間で合意できていたが、その範囲がどこまでを指すかは、あいまいなままだった。

2016年9月24日土曜日

マニラのマッカーサーから届いた「一般命令第一号」により、ようやく各地に展開していた各部隊が、連合国のどの国に降伏するかが明らかになった。
日本本土も分割統治されない事が分かり、日本の上層部はやっと安心できた。
そして、各部隊の降伏先は次のように指令された。
朝鮮半島にいた第17方面軍のうち、北緯38度以北にいた軍隊は極東ソ連軍総司令へ、以南は米陸軍部隊最高司令官に降伏することが決まった。
日本軍を武装解除させるために、ポツダム会談でソ連とアメリカが交渉して決めた仮の分断線が、そのまま北朝鮮と韓国を分ける38度線となってしまった。
ベトナムも同様で、支那、台湾、および北緯16度以北の北部仏印にいた日本軍部隊は、蒋介石総裁に、香港にいた部隊は英海軍ハーコート少将に武装解除されることになった。
そして南方軍のうちビルマ、タイ、マレー、そして北緯16度以南の南部仏印は東南アジア連合国軍最高司令官に降伏する。
つまり、ベトナムも北緯16度で南と北に分断され、これがのちのベトナム戦争へと引き継がれていくことになる。
そしてラバウルにいた第8方面軍は豪州軍司令部に、残りの満州全土の関東軍は、極東ソ連軍総司令部ワシレフスキーに武装解除されることになった。
満州がソ連の猛攻にさらされていた頃、東京では大騒ぎになっていた。
アメリカからの初めての命令を受け取りに、マッカーサーのいるフィリピンのマニラまで使節団を派遣する準備に慌てていた。
アメリカ政府は、8月16日の早朝に、日本に対する「一般命令第一号」に関する指令を出している。
即時停戦を命じるとともに、ついては降伏条件を遂行するために必要な諸要求をするから、マニラの連合国軍司令部まで使節を派遣せよ、というものだった。
8月17日に、使節団メンバーを慌てて人選したが、降伏に関する使節のような屈辱的な役目を、みんなが嫌がり難航していた。
また、もし降伏文書に調印するなら全権大使を任命せねばならないので、アメリカに、これは降伏文書調印なのかと問合せをしている。
このように当時の連合国軍司令部との電報のやりとりは、束になるくらい沢山残っており、日本の首脳部は初めての降伏という事態に準備ができていなかったのである。
結局、降伏文書に調印するのではなく、ただ命令書を受け取るだけだと分かり、河辺虎四郎参謀次長を筆頭に通訳2人を合わせて計14名の大所帯が使節団としてマニラに行く事になった。
アメリカからは、沖縄の伊江島まで来いと、そこから大きな飛行機でマニラまで連れていくと言われていた。
総勢14名となると、海軍の大型輸送機が必要となり、それだと給油のために一度、九州の鹿屋基地に降りる必要がある。
しかし、鹿屋基地には海軍の精鋭・第五航空艦隊とスターパイロット源田実大差が率いる343航空隊がおり、彼らが使節団の撃墜を試みる可能性があった。
特に第五航空艦隊の司令長官の宇垣纏中将は、8月15日の夕方に自ら艦爆10機を率いて沖縄の米軍船団への特攻で戦死している。
そこで、使節団は中型飛行機の一式陸攻2機に分乗して、木更津飛行場から沖縄に直行することにした。
しかし、厚木航空基地にある小園安名大佐の指揮する海軍航空部隊が追いかけてくる可能性があった。
そこでまた木更津から南下して戦闘機が届かないところまで行き、大騒ぎしてようやく伊江島に到着した。
無事にマニラに着いた使節団は8月20日に今度はアメリカから3つの大事な書類を受け取って伊江島まで帰ったが、一式陸攻の1機が故障して修理が必要となり、仕方ないので先発・後発に分かれて、第一便にマッカーサーからの書類のうち2つを乗せた。
この3つの書類は、1つ目が降伏状、2つ目が降伏に関する天皇の布告文案(詔書)、3つ目が降伏実施に関する陸海軍総命令第一号というものだったが、先に持ち帰ったのが2と3だったという。
つまり肝心の降伏文書は後発の飛行機で戻ってくることになってしまった。
しかし、ここでまたトラブルが起きる。
なんと飛行機が日本へ着く直前で燃料切れとなり、浜松付近の海岸近くの海上に不時着してしまう。
東京では撃墜されたのではないかと心配していたという。
こんなふうにして、ドタバタのうちに、マッカーサー司令部からの「一般命令第一号」が、予定時間より大幅に遅れて到着したのである。
1945年8月19日の午後3時半に行われたジャリコーヴォ会談の内容について、8月21日に秦総参謀長より大本営宛に報告を打電している。
そこには、ソ連との会談で取り決めた7カ条の「協定」が書いてあるが、その中には捕虜を本国へ一刻も早く帰還させることは出ていない。
第三番目に、「日本軍の名誉を重んず。これがため将兵の帯刀を許可し、また武装解除の取扱いも極力丁寧にす。解除後の将校の生活はなるべく今迄同様とす」とあり、これをソ連側は了承したと書いてある。
これは、日露戦争の乃木将軍がロシアのステッセル将軍に示した姿勢と全く同じであり、この帯刀に関しては相当こだわったようである。
将校には労働させないことについては、1907年のハーグ陸戦条約にもなっているのに、第三項では「将校の生活はなるべく今迄同様とす」とあるだけで、7項以下の電報は「未着」となっている。
この電報の記録を見る限り、将兵を速やかに本国へ帰還すべし、という要求をしていない。
この「以下未着」の部分に、何が書かれていたかについては、戦後に瀬島は一切語らなかった。
そして、合意をしたならばソ連側にも、その裏付けとなる資料が出て来くるはずでが、それも出で来ないという事は、ソ連側にも何か隠したいことがあるのかもしれない。

2016年9月23日金曜日

関東軍総司令部と極東ソ連軍総司令部との直接交渉の会見は、ソ満国境近くの興凱湖の南にある小さな村、ジャリコーヴォにつくられた丸太小屋の中で行われた。
日本側の出席者は、秦彦三関東軍総参謀長、瀬島龍三参謀、通訳としてハルビン総領事の宮川舩夫。
ソ連側はワシレフスキー総司令官、メレツコフ第一極東方面軍司令官、ノヴィコフ極東空軍司令官、コマシェフ太平洋艦隊司令官、その他幕僚数名だった。
ここには国際法の専門家が存在しなかった。
日清・日露戦争、第一次世界大戦と、それまでの日本の戦争では、すべて国際法学者がついて行って、戦争終結に関する交渉をしている。
旅順攻囲戦の時にも、ロシアのスデッセル将軍から届いた文書が間違いなく降伏文書がどうか、国際法の学者が読んでいる。
ところが、太平洋戦争では、関東軍総司令にも、南方軍総司令にも、どこにも国際法学者は存在しなかった。
外交文書では、双方の代表団が顔を合わせると同時に、全権委任状を示して、お互いにそれが友好であるかを確認して、協議に気入る。このようにして、国際法的な拘束力があることを確認する。
ジャリコーヴォの会見では、日本側に全権を委任されたという証拠になるものは無く、軍人同士の交渉でしかなかった。
つまり、暫定的に戦闘を止めるという停戦協定でしかなく、降伏ではないので、武装解除もしないので、また戦闘が始まる場合もあった。
これを恒久的なものにするには、お互いの政府を代表する人間が交渉して文書にする必要があった。
ちなみに、この会見で瀬島龍三が満州に残った日本兵を労働力として使ってもよいとソ連に申し出たという疑惑も、背軸が日本側の代表ではなかったことから、否定されるのである。
終戦時の日本が錯覚したのは、降伏後に直ぐにマッカーサーが最高指揮権を持つと信じ込んでいた事である。
正式にマッカーサーが連合軍最高司令官になるのは、日本が降伏文書に調印した9月2日になってからだった。
当時の外務省も、後からスターリンもポツダム宣言に署名したのだから、マッカーサーにはソ連側をも拘束する権限があると誤解していたようである。
8月21日頃、満州で攻撃を続けてくるソ連軍に対して、すでに天皇の大命が発せられたのだから即時攻撃停止をソ連軍に要請してほしいと、外務省はマッカーサーに必死の訴えの電報を打っている。
関東軍総司令官の山田乙三は、満州国大使も兼任しており、極東ソ連軍総司令部に、16日に戦闘行動停止を申し入れている。
関東軍の通信網はソ連の猛攻でずたずたになっていたので、新京のラジオ放送を通じて呼びかけたという説もあるくらいだった。
そのせいか、ソ連側からの回答がきたのが17日夜だった。
結局、関東軍総司令部が極東ソ連軍との直接交渉を持てたのは、それから2日後の8月19日午後3時半になってからだった。

2016年9月21日水曜日

そもそも国際条約というのは、お互いに腹に一物ありで、乱暴だが破るためにあると言ってもよい。
国際法の中には、「事情変更の法理」という法原理があり、事情が変わった場合は法を破ってもいいというのである。
日ソ中立条約の目的は、日ソ間の平和を維持することだったが、ナチス・ドイツが敗れた後、ソ連にとっては、日本だけが我々の同盟国である英米と戦争を続けていて、平和を守る石がないのが明白になったので、事情が変わったのだという具合である。
これと同じ例が、日本がアメリカと新安保条約を締結した直後の1960年1月27日に出されたソ連のグロムイコ外相の覚書で、新安保条約で事情が変わったのだから、それ以前の1956年10月19日に結ばれた日ソ共同宣言は守らない、という内容であった。
それに対して、日本は1951年の旧安保条約は現在よりも、もっと日本のアメリカに対する従属性は高かった、その安保条約があるのを前提にし日ソ共同宣言を結んだのだから、これは事情変更に当たらないと反論した。
日本が「大東亜戦争」と命名したのは、開戦後の1941年12月10日の大本営政府連絡会議においてである。
正式に決まるまで大揉めに揉め、海軍からは太平洋戦争あるいは対米英戦争という案が挙がった。
日本では古来から戦争の名前を場所ないし大戦相手の名称でよんできたではないか、という訳である。
他紙から、長篠の合戦、関ケ原の合戦は場所からとっているし、日露戦争は対戦国の名前からとっており、政府もそれを是とした。
それに対して陸軍は、大東亜共栄圏をつくることが目的であるから、大東亜戦争であると主張した。
そうなると広大な「大東亜」の範囲に、ソ連は入るのかという議論となり、陸軍の答えは、「もちろんソ連が出てくればソ連に進出するし、ドイツが中東に出て来たら、こっちもインドを超えて中東まで行く、全部含めて大東亜だ。」というものだった。
要するに大東亜戦争というのはイデオロギー臭の強い、誇大妄想だった。
つまりソ連からすると、日本は初めからソ連侵略の野心があったと、中立条約の精神に反しているということになるのである。
そもそも1941年4月に日ソ中立条約を結ぶとき、ソ連側の意向としては不可侵条約を結びたかったという。
不可侵条約であれば、いかなる場合でも相手を侵略してはならなが、ところが日本は中立条約という名前にこだわったと言われている。
中立条約という名称だと、自らの判断で相手国に攻め入ることができるという選択肢が残されることになる。
日ソ中立条約の場合、条約の文言上は相互不可侵となっているので、事実時用は不可侵条約であるが、日本が名称として中立時ようやくにこだわったのは、第三国との関係では中立を守るけれども、自分の判断で自衛のために戦争を行うことはある、という道を日本が残しておきたかったと思われる。
一方で、日本側も内容は不可侵条約にしておきたかった面もあった。
スターリンから、「それなら南樺太と千島列島は、ロシアに返してもらいたい」と言われ、松岡外相もさすがにこの要求は飲めないので、何とか第一条に「両国の領土の保全および不可侵を尊重する」という条文を盛り込むことに成功している。
その後、独ソ戦が始まった時に、日ソ中立条約を締結した張本人の松岡が、「今こそソ連を撃つべし、日ソ中立条約より三国同盟を優先する」と、強硬なことを言っている。
更にドイツからもソ連に攻め入るよう要請があり、北信論を掲げる勢力が陸軍内部に存在し、実際に1941年7月に関東軍特殊演習として、日本は急遽、召集令状ほ大量に発して、老兵をかき集め70万人以上の兵力を満州の北方に送り込んでいる。
日本人は1945年8月15日で戦争が終わったと思いがちだが、実は9月2日のミズリー艦上での降伏文書調印まで、国際的には戦争が終わったとは言えなかった。
連合軍にとって日本時間8月14日の日本のポツダム宣言受諾は、降伏の意思表示にしかすぎず、実際にはソ連と9月半ばまで戦闘は続いていた。
今日の北方領土の問題がこじれるのも、この辺りに原因がある。
日本がポツダム宣言をすぐに受入れなかったのは、そこにソ連の署名が無かったことも影響している。
ポツダム宣言が出された7月27日の時点で、軍中央が一番注目してのは、「天皇の地位」と「スターリンの署名の有無」だった。
それが無かったので、近衛特使のソ連訪問に関する打診の答えを待つことになったのである。
その返事が、ソ連の対日宣戦布告という形で、モスクワの佐藤大使に告げられるのは、スターリンとモロトフ外相がポツダムから帰ってきた8月8日である。
ポツダム宣言に関しては、スターリンは全く蚊帳の外に置かれ、米英中の共同宣言という形で出され、スターリンが署名したのは8月8日だった。
この事も、スターリンの対日参戦へ拍車をかけたのである。
結局、日本はソ連が参戦したきた8月9日以降、ポツダム宣言に記された天皇の地位があいまいなことから、この点を再確認するという方向へ進んでいく。
原爆とソ連参戦のどちらが日本の降伏にとって決定的だったかというと、今でこそ原爆が大きな評価をされているが、当時はアメリカも含めて原爆に対して過小評価をしていたと思われる。
アメリカ自身が、原爆が一都市を吹き飛ばすほど凄い威力だというのは想定外だったようである。
そして、日本も広島の原爆でポツダム宣言受諾の方向に傾いたようでもない、とう説が戦後には主流となっている。
無条件降伏を迫るポツダム宣言が日本に到着したのは1945年7月27日であり、広島・長崎への原爆投下直後に受諾していないからである。
そもそもアメリカの当初案では、降伏にあたって日本が天皇の地位にこだわることが分かっていたので、「日本国民が選択すれば、天皇制を存置することができる」という条項を入れたものになっていた。
この天皇に関する条項を入れた上で、降伏しなければ原爆を使うぞと警告すれば、日本は無条件降伏を受け入れるのではないかと、5月中旬から「無条件降伏」の内容について検討をしていた。
しかし、その条項にスチムソン陸軍長官が反対した。
原爆の完成が刻々と近づいていたからであろう。
このようにポツダム宣言が出される2ヶ月前の時点では、アメリカでは日本にどうやって降伏させるか揉めていたが、7月16日にアラモゴードで原爆実験が成功し、その知らせを受けたトルーマンが最終的に天皇の地位に関する条項を消すように指示する。
そのような条項を入れなくても、原爆を使えば日本は降伏すると考えたのである。
『トルーマン回顧録』によると、原爆投下命令は、ポツダム宣言前の7月24日にすでに出ている。
この日付を知ると、よくアメリカが「日本がポツダム宣言を受諾しなかったから原爆を落とした」という説はウソという事が分かる。
ソ連は、アメリカが先に原爆開発に成功するとは思っておらず、むしろソ連は世界で初めて核分裂実験に成功したドイツの科学者を警戒していた。
しかもドイツは、V1、V2という巡航ミサイルと弾道ミサイルを実戦配備し、イギリスに対して使っていた。
V1、V2ロケットに、毒ガスとか生物兵器を載せたら、イギリスに大打撃を与えれたが、しかしそうしたらイギリスが報復に出て、ドイツの人口の半分くらいは殺されたであろう。
つまり生物兵器や原爆といった非人道的な兵器には抑止力があるということである。
一神教の考えでは、「許すが忘れない」か「許さないし忘れない」かのどちらかしかなく、水に流すという言葉は無い。
相手を滅亡させるか、完全に分解してどこか別の民族に同化させるか、徹底的な報復をしないと収まらない。
彼らはお互いの怖さを知っているから、争いの前に相手を一人残らず殺せるかどうかと考えて、殺せると思わなければやらない。
ヒトラーはユダヤ人に対しては、それができると思ったのである。
結局、各国は毒ガスを持っていたのに、第二次世界大戦ではどの国も使用しなかった。
一神教の世界の人々は、毒ガスを使えば皆殺しの報復に遭うと、お互いに皮膚感覚で分かっているからである。
報復という点では、原爆を落とされた日本人はなめられていたという事である。
1945年8月9日のソ連による満州侵攻という日付の意味に注目すると、スターリンの意思決定が合理的な形でなされているとは思えない。
1945年2月のヤルタ会談で、スターリンはドイツ降伏の3ヶ月後に参戦すると言っていた。
ソ連の対独戦勝記念場が5月9日だから、その3ヶ月後は8月9日となり、米英に対してヤルタ会談での対日参戦の約束を守ったという気持ちが強かったと思われる。
その後の9月2日のスターリン演説では、日露戦争の仇を撃つ、日露戦争で奪われた領土を取り返すというスローガンを掲げ、独ソ戦後で疲弊していたソ連軍兵士や国民を鼓舞し、対日参戦を加速させた。
つまり、スターリンの個人的な思いで、8月9日に満州へ侵攻することになったのである。
もともとの予定では8月23日だった。
ヨーロッパか戦線から軍隊を極東に移動するのに、そのくらいの期間がなければ間に合わなかったのを、8月15日に早められ、さらに無理を承知で9日に前倒したのである。
兵力が足りないからと、極東ソ連軍最高指令官のワシレフスキーは猛反対している。
米英ソによるポツダム会談は、1945年7月17日から8月2日にわたってソ連の占領地となったベルリン郊外のポツダムで開かれた。
日本に無条件降伏を迫るポツダム宣言が出されたのは7月26日で、8月14日に日本は天皇の「聖断」によって、これを受け入れた。
こうした流れを踏まえた上でポツダム会談から8月15日の玉音放送までをみると、ソ連の対日参戦とアメリカの原爆開発は、お互いを出し抜こうと競争していた事が見て取れる。
ソ連側の資料を読み込んで、ソ連の対日参戦の過程を詳細に追った『暗闘』でも、日本がポツダム宣言を受け入れたのは、原爆投下よりもソ連参戦の影響が大きかったとする見方をしている。
ポツダムに到着したトルーマンが、スチムソン陸軍長官からの一方で原爆実験に成功したと知らされたのが、階段が始まる前日の7月16日夜だった。
そしてチャーチルと相談し、対日投下について話し合いチャーチルも同意している。
一方で、スターリンはポツダム到着の翌17日に、ソ連軍の満州侵攻を予定の8月15日から9日に繰り上げろと、極東ソ連軍最高指令官ワシレフスキーに命令している。
ポツダム会談中の7月24日に、トルーマンは「われわれは新兵器を持っている」とスターリンに初めて伝えているが、スターリンは既にこの情報を知っていたと思われる。

暗闘(上) - スターリン、トルーマンと日本降伏 (中公文庫)

独ソ戦で苦戦していたソ連は、日ソ中立条約の手前もあり、アメリカの対日参戦の要請になかなか応えなかった。
しかし、アメリカから相当な援助物資を得ている。
1941年10月から1945年4月までの間に、トラック42万7千台、戦車1万3千輌、航空機6700機、砲弾2200万発、銃弾9億9千発、軍靴550万足などを供給してもらっている。
ソ連軍がベルリンまで反攻した際、赤軍兵士を運んだトラックの殆どがアメリカ、イギリス、カナダ製だったという。
しかし、アメリカは上陸用船艇だけは送らなかったという。
ソ連軍が日本本土、つまり北海道に上陸することを恐れたからと言われている。
1945年8月8日に、モスクワで佐藤尚武大使は、ポツダムから帰国したモロトフソ連外相と面談がようやくかない、ソ連仲介の和平工作に対する待ちに待った答えがもらえると思っていた。
しかし、突き付けられたのは、対日宣戦布告状だった。
しかも、攻撃の期日は翌9日になっていた。
すぐに本国に知らせるため、暗号を使って電報を送ることを許可して欲しいと願い出た佐藤大使に、モロトフは電報は封鎖しないと約束した。
しかし、結局、ソ連側は電報を封鎖してしまい、佐藤大使が日本の外務省本省に打電した電報を、電信局は受理したものの送信しなかった。
だから日本がソ連の対日参戦を知るのは、日本時間の9日午前4時に、モスクワ放送が全世界に向かって放送したこによってだった。
これについて、最近、日本政府は重要な答弁書を閣議決定している。
2015年4月7日、鈴木貴子代議士が、「『ソ連の対日戦布告』に対する駐日ソ連特命全権大使佐藤尚武氏の公電は日本政府に届いているか」と、質問主意書を提出した。
これに対して政府は、戦時下のことであるから確定的な答えはできないがと、前置きした上で、「昭和四十一年三月に外務省欧亜局東欧課が作成した『戦時日ソ外交史(自昭和十六年至昭和二十年)』においては、『本件電報は遂に到着しなかった。』としている」と、安倍晋三首相名での答弁書を決定した。
これは、日本はソ連に不意打ちをされたことを、羅―日本政府の正式な見解にしたという重要な質問だった。
瀬島龍三は、1944年12月から翌1945年2月にかけて、モスクワをを訪れている。
この時、彼は名前を変えて、軍服ではなく背広姿で行っている。
しかも、外務省のクーリエ(伝書使)と身分も偽っている。
開戦前から作戦課に居続け、階級は低いのに「陰の参謀総長」と言われていたほどの人物が、この重大なタイミングで単に大使館に文書を届けるだけのお使いに、わざわざ仮名でソ連まで行くというのは有り得ない話であり、何か重大な使命を持っていたと考えるほかない。
その時、関東軍の総司令参謀として新京に赴任し、背広姿の瀬島と同じ飛行機に乗り合わせていた高橋照次少佐の手記(『歩兵第十四連隊史』)には、「重大指名を持ってソ連に行く瀬島参謀を歓送する会をやった。重大使命とは日本と米英両国間との講和について、ソ連に斡旋を依頼する訓令というものだった」と記している。
これが後に、瀬島のスパイ説の原因となる。
終戦間際に、満州に侵攻してきたソ連軍と停戦交渉に及んだ瀬島は、その席で日本人の労働力提供、つまりシベリア抑留につながる条件を申し出たと噂された。
また、自身も11年間シベリアに抑留され、その間にソ連側のスバイになるよう洗脳されたという説もある。
両方とも本人は否定したまま、重要な外交交渉について、真実の記録を残さないまま、2007年に亡くなっている。
1945年7月に、731部隊の件で天皇に非が及ばないように、関東軍参謀だった皇族の竹田宮を東京に返し、代わりに瀬島隆三を送り込んだが、このとき瀬島は、自分からてを挙げて満州行きを希望している。
その理由は、上空でアメリカの戦闘機が飛び回っている日本にいるより満州のほうが安全だと思っていたからだという。
ドイツ降伏時に、ベルリン日本大使館外交官補だった吉野文六は、モスクワ経由で日本に帰国の際に新京に立ち寄ったとき、大使館幹部から「満州の方が安全だから本省に戻らず、新京の日本大使館に転勤を願いでたらどうだ」と勧められたという。
日本は終戦間際までソ連に英米との和平仲介の望みをかけていたが、最終的に1945年8月9日のソ連の満州侵攻という事実によって、それがいかに現実とかけ離れた夢想であったかが証明された。
駐ソ大使の経験がある元首相の広田弘毅が、箱根・強羅に疎開中だったマクリ駐日ソ連大使を訪ねたのが、1945年6月3と4日で、6月22日の御前会議での決定をみて、29日に正式な交渉として、満州国の中立化、漁業権の解消といった日本側の条件を示し、交渉の窓口を開けておくのでソ連側の希望を聞かせて欲しいと伝えている。
しかし、ソ連は1945年2月のヤルタ会談で、ルーズベルトに応じてスターリンが承諾する形で、ドイツ降伏後3ヶ月で対日参戦することを英米と合意している。
この合意を知らずに、日本の首脳陣は、ソ連から返事が来ないので、次は天皇の親書を持った近衛文麿を特使に立ててソ連に行かせることまで考え、その命を受けた佐藤尚武駐ソ連大使が、モスクワのモロトフ外相に面会を求めたところ、面会してもらえなかった。
待たされた結果、7月20日ににようやく届いたソ連からの返事は、日本の具体的提案の内容がよく分からない、特使派遣の使命が不明瞭などというもので、明らかに時間稼ぎをしていた。
ソ連としては、日本を騙すというより、もはや降伏しかないことを理解した方がよい、というシグナルを出していたと考えるべきである。
ソ連の立場に立ってみると、1945年4月の時点で、日ソ中立条約を延長しないと申し入れている。
条約は延長しなくても、翌1946年4月24日まで有効だったが、不延長を通告された意味を、日本は理解すべきだった。
また、5月8日のドイツ降伏の後、ベルリンに進駐していたソ連軍は、日本大使館に残っていた外交官や残留邦人をモスクワ経由で満州に送還している。
ソ連のこの日本に対する好意的な行為は、連合国の一員としてあるまじき事であった。
しかし、この行為こそがソ連の小さく信用させて、大きく騙すという謀略だったのである。
日本側は、これで好意的なソ連が攻め込んでくることは無いと、信じてしまったのである。
その中だたった一人、宮川舩夫ハルビン総領事は「近くソ連は間違いなく入ってくる」と断言していたという。
彼は情報を分析する能力を持っていたからこそ、戦後にソ連に逮捕され殺されてしまう。
歴史認識について、日本とアメリカの関係では基本的に決着がついている。
しかし、日本は中国とロシアとの間では、未だ「歴史戦」が続いているという現実を直視せねばならない。
日露戦争もシベリア出兵も、ノモンハン事件も「歴史戦」という形で、未だに続いている。
ロシアとの「歴史戦」に敗れると、シベリア出兵の時から一貫して日本は侵略国であると、言われてしまう可能性があるので、理論武装が必要なのである。
一方で、モンゴル人は、日本とモンゴルは二勝二敗という認識がある。
モンゴルは、ノモンハンと太平洋戦争で日本に2回勝利し、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)で日本に2回負けたと考えているという。
スターリンは、東京湾の米艦ミズリー号上で日本が降伏文書に署名した1945年9月2日に、「1904年の日露戦争でのロシア軍隊の敗北は、わが国に汚点を残し、40年間、この日が来るのを待っていた」という趣旨のラジオ演説をしている。
ロシアは2010年にこの日を第二次世界大戦戦勝記念日として祝日にしたが、プーチンは式典に出席しておらず、出席しないことで日本にシグナルを送っていた。
しかし、2015年9月2日の記念日の式典には、チタで出席した。
これに対して「日本がミズリー号で降伏文書調印をした日の式典に出席した」という批判が日本が上がったが、文句をつけるならば、「スターリンの演説の日の式単になぜ出席したのか」と言うべきであった。
「スターリンの歴史観をついに採用することになったのですね」と言って攻めれば、ロシア側がそうとう参るはずである。
ロシア政府は、スターリンとの連続性を指摘されるのを、もの凄く嫌がるのである。
この式典に関して重要なのは、チタという場所である。
チタでの式典に出たということは、日本がシベリア出兵の際に占領した地であることを、当然踏まえているからである。
つまり、ロシアのクリミア併合に対する日本政府が欧米と協調して制裁を加えた姿勢に対して、「日本がウクライナ問題を非難するならば、ロシアは日本にジリア出兵で侵略されたことを忘れていないぞ」というシグナルを出しているのである。

2016年9月19日月曜日

ソ連と北朝鮮の国境地帯には多くの朝鮮人が住んでいたが、ノモンハン事件の後、日本のスパイになる可能性があるとして、中央アジアに強制移住させられており、その後、誰も住まわされていない。
ロシアと北朝鮮の国境地帯は、豆満江の向かい側で、決して悪い土地ではないが、わざとペンペン草が生えるように放置して、緩衝地帯にしている。
だから、朝鮮半島に何かあった場合、ロシアは難民で悩む必要がない。
スターリンによって、シベリアや中央アジアに強制移住させられていたチェチェン人やイングース人は、1956年のスターリン批判の後、名誉回復して元の土地に帰還する事ができた。
しかし、朝鮮人の名誉回復はせず、帰還も認めなかった。
ゴルバチョフ時代になってようやく、強制移住があったことは認めたが、帰還には未だに消極的である。
実際に戻ってきても何のインフラも無いので、その結果、北朝鮮からの難民が絶対に入って来ないという仕組みを作ることに成功したのである。
ソ連は満州国の存在自体を認めていなかったにもかかわらず、チタやハバロフスクには満州国や日本の領事館があった。
そこに日本は、陸軍中野学校出身の工作員を派遣していた。
日本の勢力下ではなかったにも関わらず、両都市に日本の領事館が置かれており、それをソ連は認めていた。
人生の楽しみとは知的力量、実体験豊富な人との出会いにあり、そして話を聞きながら自分も考える、楽しいおしゃべりをすることにある。
by 半藤一利

2016年9月18日日曜日

陸軍中央はノモンハン戦闘後の1940年に「ノモンハン事件研究委員会」を設置して研究しているが、この失敗に学んだとは思えない代物だったという。
ソ連はこのノモンハン戦闘を検証し、その後の対日戦に備えて、モンゴルの広大な草原に要塞を作っていたことが2009年から始まった調査で明らかになった。
2015年6月11日付の朝日新聞夕刊に、長大な対戦車壕跡の空撮が出ている。
ノモンハンの戦いの後、日本が攻めてくることを本気でソ連は怖れて、壕を掘り、基地を建設し、軍用鉄道を敷いたのが分かった。
鉄道はシベリア横断鉄道のソ連領の東端ボルジャ駅から南下してチョイバルサンに向かい、そこからさらに東に進んで満州国との国境手前まで400キロ以上に渡って結ばれていた。
ノモンハンの戦いの最中、鉄道はポルジャまでしか通っておらず、ソ連軍は日本の3倍以上の兵力、武器、物資をトラックで戦場まで730キロを輸送している。
この調査で1942年6月6日付で、スターリンからモンゴル当局宛てに「チョイバルサンから国境までの鉄道建設の調査を年内に追えよ」という指示があったことが、モンゴル防衛研究所の資料から分かった。
つまり、この軍用鉄道の建設は1942年以降ということになる。
関東軍参謀で作戦主任の服部卓四郎と、同じく作戦参謀の辻政信は、陸軍大学で服部が辻の一期先輩にあたるが、二人とも恩賜の軍刀組と呼ばれる成績優秀者で稀にみる秀才だったという。
服部と辻二人が、ノモンハン事件を主導して日本を太平洋戦争へと駆り立てたのに呼応して、ノモンハンでの戦闘が第二次世界大戦の始まりだったとする『ノモンハン1939』という本がある。
原著は2012年にアメリカでで出版され、著者は米国議会図書館議会調査局の専門調査員の経験があり、ロシアの資料保管所を当り、さらにモンゴルでの現地取材や日本語文献にも目を通して書いたという。
この本で特に注目されているのは、ノモンハンでの戦いと独ソ不可侵条約の関係で、ジューコフ軍司令官が200機を超える爆撃機でハルハ河越えの大攻勢をかけたのが8月20日で、その日から24日にかけてノモンハンの戦いがピークに達している。
それと同じ頃に、独ソ不可侵条約が8月23日に調印されている。
これで英仏とソ連の二正面作戦を回避することに成功したヒトラーは、その一週間後、ポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が始まるのである。
9月17日にはソ連軍もポーランドとの国境を越える。
独ソ不可侵条約の秘密合意事項として、ソ連もポーランドに侵攻かると約束していたからである。
ノモンハンでの停戦合意が日本と試練との間で成立したのが9月15日だから、スターリンは後顧の憂いを断って、ヒトラーとの約束を果たしたことになる。
スターリンとしても、目の前にはヒトラーが迫り、東方では日本の関東軍がちょっかいを出していて、しかもその日独が軍事同盟を結ぼうとしているという状況にあって、何としても二正面作戦を避け、ノモンハンでの戦いに早くケリをつけたかったのである。

ノモンハン 1939――第二次世界大戦の知られざる始点

『満ソ国境紛争処理要綱』が1939年に関東軍の正式な命令として各部隊に示達された。
東京の参謀本部の「侵されても侵さない」という国境警備の方針に反して、『満ソ国境紛争処理要綱』では、国境を越えて来た敵を殲滅するために、こちらも国境外へ兵を進めてよい、さらには国境が明確でない地域では防衛司令官が自主的に国境線を認定したほうが紛争防止に役立つという、明らかに挑発ととれるこの要綱を書いたのは、関東軍の作戦参謀・辻政信だった。
辻は終戦をタイのバンコクで迎え、戦犯指定から逃れるため、僧侶になりすまし中国やベトナムに潜伏する。
1950年になって戦犯にならずに済むことが分かると、逃亡時代を振り返って『潜行三千里』を出版し、これが爆発的に売れた。
自己弁護に徹した本ではあるが、痛快な冒険ストーリーで面白いことは面白い。
それで選挙に出馬して、衆議院議員に当選してしまう。
辻の最期は謎に包まれており、参議院議員に鞍替えして在任中の1961年にラオスで行方不明になっている。
反米的な態度でアジア政治に階級の恐れがあるとCIAが暗殺したという説から、中国共産党による拉致説まで、様々な憶測がされた。
辻の信奉者だった朝枝中佐によると、辻は中国潜伏中に蒋介石に匿われて重慶にいたという。
その時の体験談は『潜行三千里』にも書かれているが、その時期に黄金の三角地帯と呼ばれるタイ・ラオス・ミャンマーが国境を接する山岳地帯でアヘンを仕入れて、かなりの量を隠匿していたという。
謎の失踪を遂げた年に、辻はそれを取りに行き、回収して中国で売り、日本での選挙資金にするつもりだったようである。
ところが預けていた相手が代替わりしていたため、トラブルに巻き込まれたというが、真偽のほどは分からない。

潜行三千里 新書版

昭和の歴史を考えるとき、ノモンハン事件というのは、決定的な事件だった。
試練崩壊後、外交文書や共産党の文書が公開され、ベールに包まれていた歴史が、徐々に明らかになってきている。
この戦闘の死傷者数は、これまではソ連側の1万人に対して、日本側は1万8千から1万9千という数字が一般的だったが、2000年頃に出て来た数字によるとソ連側は2万5千人と日本より多い死傷者だった事が分かった。
日本ではノモンハン「事件」という呼称が一般的だが、1939年にモンゴルと満州国の国境紛争を発端に起きたこの争いは、事実上、それぞれを支配下に置くソ連と日本とが、真正面からぶつかった「戦争」だった。
ノモンハン事件は、日本軍にとって、まさに日露戦争以来の大戦争であり、日本軍はこの戦いで初めて近代戦を経験した。
戦車戦でも航空戦でもソ連の近代兵器を前に、手も足も出なかった。日露戦争以来34年間も日本陸軍は近代戦を戦ったことのない軍隊だった。
モスクワのフランス大使館の前に、汚い扉がついて倉庫のような建物があるという。
モスクワ健康センターという名称だが、実際にはブレジネフ時代から続いている長寿研究所であり、いかに政治指導部を長生きさせるかを研究しているという。
彼ら医師は全て軍医である。
毎年新型インフルエンザが流行ると、それが自然変異の範囲内で起きたのか、人為的につくられたウイルスなのかをまず確認するという。
インフルエンザひとつをとっても、彼らは生物兵器である可能性を常に頭にいれて対応している。
731部隊の情報のうち、アメリカに流れたものは、朝鮮戦争で使われたといわれている。
ソ連崩壊後に、埋もれていた資料の公開が始まっており、これから新しい「歴史戦」が始まる可能性がある。
昭和史の「逆襲」を受けないためにも、我々国民ひとり一人が、自国の歴史に向き合うことが求められている。
1948年に起きた帝銀事件にも、731部隊の影がちらつくという。
帝銀事件とは、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に、都の衛星課員を装った男が現れ、赤痢の消毒の前に予防薬を飲んでもらうと言って、光陰に青酸カリ用カキを飲ませ、死者12名を出した事件である。
松本清張は、犯人は石井部隊の生き残りであったと推理小説『小説帝銀事件』を書いた後、小説では誰も信じないからとノンフィクションで書き改めた『日本の黒い霧』に、
帝銀事件に使用された毒物は、検事側が云うような単純な青酸カリではなかった。
それは旧陸軍関係者が製造していた毒物と思われる可能性が高い。そして、それは旧日本軍の研究していた秘密兵器であり、その業績は当時のGHQが九研関係者、731部隊帰還者の留用によって秘密裡に研究されていたことに、我々の考えは突き当たる。
と書いている。
九研とは、陸軍の秘密兵器を開発研究する第九陸軍技術研究所で、通称「登戸研究所」と呼ばれていた。
犯人とされた平沢貞通は冤罪だったが、真犯人はついに特定できなかった。

日本の黒い霧

風船爆弾は、1944年11月から翌1945年4月にかけて、約9000個が放球され、そのうち1割が北米大陸に到着したいとう。
ボヤ程度の森林火災が2件、ワシントン州ハンフォードにあった原子爆弾製造工場の電線に落ち、電流が一時的に中断したという記録がある。
全工場の原子炉の安全装置の引き金が引かれて、全能力回復まで3日を要したと言われている。
もちろん、アメリカの資料では、すぐさま復旧したとなっている。
風船爆弾は千葉の一宮や茨城の大津から放球しているが、北海道の根室から飛ばしていれば、もっと多く北米大陸に届いていたはずだが、失敗してカムチャッカ半島に落ちる可能性があり、ソ連参戦の口実を与えてしまう恐れを避けるため、太平洋側から放球したと思われる。
風船爆弾はもともと、対ソ戦に備えて、宣伝ビラを撒くために開発されたものだった。
実際に風船に最近爆弾を載せる計画を準備していた証拠として、風船爆弾研究の協力者として、陸軍気象部や中央気象台の技師たちと並んで、内藤良一中佐が加わっていた事が分かっている。
内藤良一は、軍医学校防疫研究室の責任者で、この内藤の富号作戦部隊における任務は、「経度信管」の研究だという。
信管であれば、爆弾の信管が破裂するかどうかという問題だから第八技術研究所の担当であり、陸軍医学校の人間が担当するのは筋違いであった。
この内藤良一というのは、731部隊長の石井四郎の直属の部下位゛、戦後にミドリ十字の社長となる人物であった。
つまり、風船爆弾に最近兵器を載せるための準備を、この内藤中佐が研究担当としてやっていた可能性は高いと思われる。
もしも風船爆弾をアメリカに飛ばして細菌高下はを行っていれば、アメリカ軍は、硫黄島と沖縄で毒ガスを使用した可能性は高く、日本人は滅亡させられていたかもしれない。
1944年9月26日に、風船爆弾によるアメリカ本土攻撃を任務とする気球部隊を編制している。
風船爆弾による攻撃を富(ふ)号作戦と呼び、部隊は参謀総長の直属だった。
そして、11月3日の明治節の早朝を持って攻撃を開始するという作成計画が決定されたが、それに普通の爆弾を搭載するのか細菌爆弾を搭載するのかは決まっていなかった。
1944年10月25日の『昭和天皇実録』には、風船攻撃を天皇を裁可したことは書かれているが、風船爆弾に細菌爆弾を載せたかどうかは、書かれていない。
しかし、侍従武官を通して陸軍中央部に、天皇にして大元帥のお言葉として「殺戮用最近は使用してはならない。国際的信義は大切にしたい」と伝えられたという。
つまり、戦後に鬼畜にも劣るとの汚名を、日本人は子々孫々まで残す可能性があった計画を思いとどまらせた天皇のもう一つの聖断だったということである。
多摩霊園の第五区一種18側に、精魂塔というものがある。
名前も何も刻まれていない塔だが、戦後になって731部隊の生き残りが建てた慰霊塔である。
ハバロフロスク裁判で、柄澤少佐は刑が決まり(矯正労働20年)、1956年に日ソ共同宣言で恩赦となってにも関わらず、自死してしまう。
一方、矯正労働25年の刑を受けた川島少将は生き残って日本へ戻ってきている。
ここで行われる慰霊祭に、日本に帰ってきた川島少将は時々参加していたという。
731部隊の他のメンバーに、ハバロフスク裁判でソ連に秘密をしゃべったと攻められた際に、「俺は悪い事はしていない。天の命令によってやったとは言っていないんだから」と言い返していたという。
確かに『ハバロフスク公判書類』を読む限り、天皇が作戦を認可してことには触れられていない。