日本は終戦間際までソ連に英米との和平仲介の望みをかけていたが、最終的に1945年8月9日のソ連の満州侵攻という事実によって、それがいかに現実とかけ離れた夢想であったかが証明された。
駐ソ大使の経験がある元首相の広田弘毅が、箱根・強羅に疎開中だったマクリ駐日ソ連大使を訪ねたのが、1945年6月3と4日で、6月22日の御前会議での決定をみて、29日に正式な交渉として、満州国の中立化、漁業権の解消といった日本側の条件を示し、交渉の窓口を開けておくのでソ連側の希望を聞かせて欲しいと伝えている。
しかし、ソ連は1945年2月のヤルタ会談で、ルーズベルトに応じてスターリンが承諾する形で、ドイツ降伏後3ヶ月で対日参戦することを英米と合意している。
この合意を知らずに、日本の首脳陣は、ソ連から返事が来ないので、次は天皇の親書を持った近衛文麿を特使に立ててソ連に行かせることまで考え、その命を受けた佐藤尚武駐ソ連大使が、モスクワのモロトフ外相に面会を求めたところ、面会してもらえなかった。
待たされた結果、7月20日ににようやく届いたソ連からの返事は、日本の具体的提案の内容がよく分からない、特使派遣の使命が不明瞭などというもので、明らかに時間稼ぎをしていた。
ソ連としては、日本を騙すというより、もはや降伏しかないことを理解した方がよい、というシグナルを出していたと考えるべきである。
ソ連の立場に立ってみると、1945年4月の時点で、日ソ中立条約を延長しないと申し入れている。
条約は延長しなくても、翌1946年4月24日まで有効だったが、不延長を通告された意味を、日本は理解すべきだった。
条約は延長しなくても、翌1946年4月24日まで有効だったが、不延長を通告された意味を、日本は理解すべきだった。
また、5月8日のドイツ降伏の後、ベルリンに進駐していたソ連軍は、日本大使館に残っていた外交官や残留邦人をモスクワ経由で満州に送還している。
ソ連のこの日本に対する好意的な行為は、連合国の一員としてあるまじき事であった。
ソ連のこの日本に対する好意的な行為は、連合国の一員としてあるまじき事であった。
しかし、この行為こそがソ連の小さく信用させて、大きく騙すという謀略だったのである。
日本側は、これで好意的なソ連が攻め込んでくることは無いと、信じてしまったのである。
日本側は、これで好意的なソ連が攻め込んでくることは無いと、信じてしまったのである。
その中だたった一人、宮川舩夫ハルビン総領事は「近くソ連は間違いなく入ってくる」と断言していたという。
彼は情報を分析する能力を持っていたからこそ、戦後にソ連に逮捕され殺されてしまう。
彼は情報を分析する能力を持っていたからこそ、戦後にソ連に逮捕され殺されてしまう。
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