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2016年9月21日水曜日

そもそも1941年4月に日ソ中立条約を結ぶとき、ソ連側の意向としては不可侵条約を結びたかったという。
不可侵条約であれば、いかなる場合でも相手を侵略してはならなが、ところが日本は中立条約という名前にこだわったと言われている。
中立条約という名称だと、自らの判断で相手国に攻め入ることができるという選択肢が残されることになる。
日ソ中立条約の場合、条約の文言上は相互不可侵となっているので、事実時用は不可侵条約であるが、日本が名称として中立時ようやくにこだわったのは、第三国との関係では中立を守るけれども、自分の判断で自衛のために戦争を行うことはある、という道を日本が残しておきたかったと思われる。
一方で、日本側も内容は不可侵条約にしておきたかった面もあった。
スターリンから、「それなら南樺太と千島列島は、ロシアに返してもらいたい」と言われ、松岡外相もさすがにこの要求は飲めないので、何とか第一条に「両国の領土の保全および不可侵を尊重する」という条文を盛り込むことに成功している。
その後、独ソ戦が始まった時に、日ソ中立条約を締結した張本人の松岡が、「今こそソ連を撃つべし、日ソ中立条約より三国同盟を優先する」と、強硬なことを言っている。
更にドイツからもソ連に攻め入るよう要請があり、北信論を掲げる勢力が陸軍内部に存在し、実際に1941年7月に関東軍特殊演習として、日本は急遽、召集令状ほ大量に発して、老兵をかき集め70万人以上の兵力を満州の北方に送り込んでいる。

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