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2016年9月21日水曜日

瀬島龍三は、1944年12月から翌1945年2月にかけて、モスクワをを訪れている。
この時、彼は名前を変えて、軍服ではなく背広姿で行っている。
しかも、外務省のクーリエ(伝書使)と身分も偽っている。
開戦前から作戦課に居続け、階級は低いのに「陰の参謀総長」と言われていたほどの人物が、この重大なタイミングで単に大使館に文書を届けるだけのお使いに、わざわざ仮名でソ連まで行くというのは有り得ない話であり、何か重大な使命を持っていたと考えるほかない。
その時、関東軍の総司令参謀として新京に赴任し、背広姿の瀬島と同じ飛行機に乗り合わせていた高橋照次少佐の手記(『歩兵第十四連隊史』)には、「重大指名を持ってソ連に行く瀬島参謀を歓送する会をやった。重大使命とは日本と米英両国間との講和について、ソ連に斡旋を依頼する訓令というものだった」と記している。
これが後に、瀬島のスパイ説の原因となる。
終戦間際に、満州に侵攻してきたソ連軍と停戦交渉に及んだ瀬島は、その席で日本人の労働力提供、つまりシベリア抑留につながる条件を申し出たと噂された。
また、自身も11年間シベリアに抑留され、その間にソ連側のスバイになるよう洗脳されたという説もある。
両方とも本人は否定したまま、重要な外交交渉について、真実の記録を残さないまま、2007年に亡くなっている。

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