1945年8月8日に、モスクワで佐藤尚武大使は、ポツダムから帰国したモロトフソ連外相と面談がようやくかない、ソ連仲介の和平工作に対する待ちに待った答えがもらえると思っていた。
しかし、突き付けられたのは、対日宣戦布告状だった。
しかも、攻撃の期日は翌9日になっていた。
しかも、攻撃の期日は翌9日になっていた。
すぐに本国に知らせるため、暗号を使って電報を送ることを許可して欲しいと願い出た佐藤大使に、モロトフは電報は封鎖しないと約束した。
しかし、結局、ソ連側は電報を封鎖してしまい、佐藤大使が日本の外務省本省に打電した電報を、電信局は受理したものの送信しなかった。
しかし、結局、ソ連側は電報を封鎖してしまい、佐藤大使が日本の外務省本省に打電した電報を、電信局は受理したものの送信しなかった。
だから日本がソ連の対日参戦を知るのは、日本時間の9日午前4時に、モスクワ放送が全世界に向かって放送したこによってだった。
これについて、最近、日本政府は重要な答弁書を閣議決定している。
2015年4月7日、鈴木貴子代議士が、「『ソ連の対日戦布告』に対する駐日ソ連特命全権大使佐藤尚武氏の公電は日本政府に届いているか」と、質問主意書を提出した。
これに対して政府は、戦時下のことであるから確定的な答えはできないがと、前置きした上で、「昭和四十一年三月に外務省欧亜局東欧課が作成した『戦時日ソ外交史(自昭和十六年至昭和二十年)』においては、『本件電報は遂に到着しなかった。』としている」と、安倍晋三首相名での答弁書を決定した。
2015年4月7日、鈴木貴子代議士が、「『ソ連の対日戦布告』に対する駐日ソ連特命全権大使佐藤尚武氏の公電は日本政府に届いているか」と、質問主意書を提出した。
これに対して政府は、戦時下のことであるから確定的な答えはできないがと、前置きした上で、「昭和四十一年三月に外務省欧亜局東欧課が作成した『戦時日ソ外交史(自昭和十六年至昭和二十年)』においては、『本件電報は遂に到着しなかった。』としている」と、安倍晋三首相名での答弁書を決定した。
これは、日本はソ連に不意打ちをされたことを、羅―日本政府の正式な見解にしたという重要な質問だった。
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