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2014年8月30日土曜日

核兵器には「戦略核兵器」と「戦術核兵器」という概念がある。

「戦略核兵器」が敵対する国を壊滅させるだけの能力を持つのに対して、「戦術核兵器」は戦場で敵対する部隊を壊滅させる力を備えた核兵器という意味である。
1948年に西ベルリンがソ連に封鎖された当時、西ベルリンには225万人の市民がいた。

そこで米軍は、市民に食糧や物資を送り届ける「空の架け橋作戦」を実行した。
西ベルリンには2つの空港があったが、さらに臨時空港を建設し、ドイツ側の3つの空港から輸送機を飛ばし続け、最盛期には輸送機が1分おきに離陸した。

閉鎖が解除された1949年5月までに、飛行回数は延べ27万7000回に上ったという記録されている。

その後、ベルリンの壁が完成する1961年までに、東ドイツから358万人が西側に逃亡した。
原爆製造のきっかけは、第二次大戦中にドイツの科学者が発表したウランの技術開発論文だった。
この論文を基にして、米国が1942年10月に全米から1万人の物理学者と数学者を集め、総力を挙げてウランの核分裂を利用した爆弾の開発「マンハッタン計画」に取り組んだ事だった。

米国は3年で原爆の実用化に成功し、ウラン濃縮によって製造できるウラン型原子爆弾と、ウランを原子炉で燃やすことによって出てくるプルトニウムを精製して製造できるプロトニウム型原子爆弾の2種類を開発した。

そして、1945年8月にウラン型原爆を広島に、プルトニウム型原爆を長崎に投下した。

ところが、マンハッタン計画で集められた科学者の中に、ソ連のスパイが紛れ込んでいた。
計画には英国の科学者も派遣されており、その中に社会主義を支持する研究者が、米国での原爆開発情報をソ連に伝えたとされている

これにより、第二次大戦後に、東西冷戦を背景に原爆開発が両陣営で加速することとなった。
米国には外交専門誌『Foreign Affairs(フォーリン・アフェアーズ)』がある。
米国のシンクタンク「外交問題評議会」が発行している歴史の長い専門誌である。

米国が外交政策を大きく変えようとしている時には、この専門誌に提案論文が掲載される。
米政府は、その論文に対する世論の反響をみて、外交判断の参考にしているという。

『Foreign Affairs(フォーリン・アフェアーズ)』
世界史の教科書にも出てくる20世紀を代表する「ヤルタ会談」の写真。

実は、一番右に着席しているスターリンの椅子は、座るとじっいよりも少し背が高く見える工夫が施されていた。

側近らが、長身のルーズベルトの横ではスターリンが小さく見えてしまう事を心配したのである。


日本も戦前に、原爆の研究開発をしていた。

陸軍は1940年に東京帝国大学に検討を依頼し、教授名の頭文字をとってコードネーム「二号研究」と呼ぶ開発をスタートさせた。

海軍は1941年に京都帝国大学に研究を依頼し、「分裂」という意味の「Fission」の頭文字をとったコードネーム「F研究」をスタートさせた。

2つの研究とも成果を見ることなく敗戦を迎えた。
1954年に日本の国家予算に初めて原子力研究予算が計上された
予算額は2億3500万円だった。

この予算数字の根拠は、「ウラン235にちなんで」というウソみたいな予算要求の結果だった。
日米安全保障条約に基づいて、日米地位協定が結ばれている。
これには米軍への基地提供について定めているほか、米兵への特権、税金の免除、裁判の方法などについても規定されている。
米国は基地を置く各国との間で、地位協定を締結している。

例えば、米軍兵士が輸送機で日本にある基地を通じて入国する場合、パスポートは不要で、入国審査もない。
訓練中に車両事故などで沖縄住民が死亡しても日本の警察は捜査できず、裁判権も米軍が持つ。

現行犯だけは沖縄県警が逮捕できるが、基地に逃げ込んでしまった場合には県警は手が出せなくなる。
重要参考人として事情聴取する場合には、米軍側の弁護士が付き添い、取り調べが終わると基地に戻ってしまう。
容疑が固まり起訴された段階で、身柄を日本側に引き渡すという運用がされている。
沖縄に配備されているオスプレイには、海兵隊向けMV-22と空軍向けCV-22がある。
1945年4月1日から6月23日にかけて大規模な地上戦が行われた沖縄戦では、米軍は1500隻もの艦船と、兵士54万8000人を投入した。

上陸した米兵は18万3000人で、待ち受けた日本側は11万6000人。
日本側には沖縄の民間人も動員させられた。
田中角栄が通産大臣の1972年に出版した『日本列島改造論』は、田中が官僚や記者らを執筆陣にして、自分が首相になったら日本列島をこんなふうにしたいとビジョンを語ってまとめさせたものである。

政策として評価は分かれるが、半年で80万部売れるベストセラーとなった。

「そんなに売れているのか。じゃあ俺も読んでみようかな」と言ったのは田中自身だったという逸話が残っている。

『日本列島改造論 (1972年)』

戦後、生き延びた日本人が海外から600万人戻ってきた。
食糧も物資も無い状態で、人口が急増した為、凄まじいインフレーションが起こった。

さらに、日本軍が解体され元兵士700万人に退職金が支払われ、需要が急拡大した。

そこで、政府はインフレ対策として1946年2月に「預金封鎖」を実施した。
国民の需要を減らすために、銀行から預金を引き出せないようにして現金の流れを止めた。

同時に「新円」に切りかえた。
国民が持っている現金を全て銀行に預金させ、そのうえで新札の新円だけが使えるようにした。

インフレになるとモノの値段が急上昇する前に、現金をモノに代えようと、銀行から預金を全て下ろしてしまい、金融システムが崩壊する。

国民の犠牲のうえで、金融システムを守り、日本経済はその後の成長の基礎を築いたのである。
日中戦争、太平洋戦争を合わせると、日本人の犠牲者・行方不明者は270万人と推定されている。

うち兵隊の数は174万人で、残りの100万人は空襲等で亡くなった民間人である。
尚、兵士の大半は東南アジアの戦地で、病死と餓死で命を落としている。
読書は、他人にものを考えてもらうことである。
本を読む我々は、他人の考えた過程ほ反復的にたどるにすぎない。
習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。
だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。
自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。
だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。

By ショーペンハウエル 『読書について 他二篇』 (岩波文庫)
古代ギリシャでは、自由人と奴隷という形で、はっきりと身分が分かれていた。
そのうち自由人達が教養として身に付けていたのが、リベラルアーツの発祥となる。
つまり、リベラルアーツとは「人を自由にする学問」といえる。

その後、ローマ時代には、リベラルアーツは7科目に整理され、自由7科目という。
文法、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽である。

このリベラルアーツは、中世ヨーロッパでも受け継がれ、現在も欧米の大学にその伝統が受け継がれている。
オウム真理教の組織は、現在も「アレフ」「ひかりの輪」という2つのグループに分かれて活動している。

オウム真理教という教団は、ヒンドゥー教と仏教を併せたような教義を持っていた。
オウムとは、ヒンドゥー教の「世界を創造する神、維持する神、破壊する神」の頭文字をとった「AUM(オウム)」に由来する。

オウム真理教の主神はヒンドゥー教の「宇宙を破壊する神」シヴァ神である。
ハワイのwaikiki(ワイキキ)とは、waiが「水」という意味で、kikiが「湧く」という意味で、名前の通り水が湧き出る場所だった。

ハワイが独立国であった19世紀末頃までは、ハワイ王朝の王族が別荘を作って過ごした避暑地だった。
ゲーム業界の市場規模は全世界でも6兆円しかなく、日本だけの市場規模だと8000億円。

セブン•イレブンはグループ全体で9.5兆円の売上がある。

映画産業の日本の市場規模は1900億円で、牛丼の市場規模の半分しかない。
紅生姜の市場規模だけでも100億円ある。

ちなみに自動車市場は50兆円、家電市場は60兆円、建築市場は50兆円、外食市場は30兆円、医療市場は40兆円、生命保険市場は40兆円。