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2016年8月13日土曜日

第二次世界大戦時の戦犯処罰は、1941年10月25日にチャーチル英首相が、ナチス・ドイツの残虐行為の処罰を戦争目的に加えようと声明した時に動き出した。
この戦犯処罰が、枢軸国の国家改造計画に組み込まれるのが第二次世界大戦時の戦犯問題の特質である。
943年11月1日に米英ソ三国によるモスクワ宣言はドイツの主犯犯罪人である指導者を連合軍諸政府の「共同決定」で罰する方針を示した。
しかし「自国民(ユダヤ系ドイツ人)に対する行為」は内政問題であり「戦争開始前における行為」も福家ことの2点で、既存の戦争犯罪に収まらない特殊性の高い行為だったため、一般市民に対する非人道的行為を国際犯罪とする「人道に対する罪」がつくられたのである。
そして、米英仏ソの法律家がナチス戦犯処罰について審議したメンドン会議(1945年6月26日~8月8日)で、侵略戦争の計画、開始を犯罪とする「平和に対する罪」が作られた。
このロンドン会議の結果、2015年8月8日に、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」の二つの事後法が生まれたのである。
ナチス指導者24名と6つの組織を審理するニュルンベルク国際軍事裁判は1945年11月20日に始まり翌年10月1日に刑を言い渡した。
判決時の被告人22名のうち有罪が19名(絞首刑12、終身刑3、有期刑4)、無罪が3名だった。
ちなみに、ムッソリーニの最期は即刻処刑だったが、「彼は裁かれないように殺害された」といわれる。
つまり「文明の裁き」の根幹は「即決処刑の否定」という点にこそあったのである。
東京裁判は「昭和の戦争の帰着点」であり「戦後思想の出発点」でもある。
日本が主権を回復して間もない1952年5月1日に、法務府(現法務省)は連合軍の裁判の受刑者は国内法の受刑者と「同様に取り扱う」とする1950年7月8日付通牒を「撤回」した。
その結果、戦犯受刑者の公民権は回復され、恩給の受給資格が得られただけでなく、A級戦犯受刑者の橋本欣五郎のように仮釈放中にもかかわらず1956年の参議院選挙に立候補できることにもなった。
第一次安倍政権で安倍総理が2006年10月の衆議院予算委員会で「講和条約を受け入れたことによって、この裁判について我々が異議を申し立てる立場にはない」と認める一方で、戦犯は「日本においては、いわば国内法的に犯罪者ではない」と力説したのは、このためである。
1945年7月26日にポツダム宣言が発表された。
その文面には、「無条件降伏」という公約を破棄したと見られたくなかった米国側の事情を反映し、「日本国家」ではなく「日本全軍隊」の「無条件降伏」と記されている。
「白紙委任型」の無条件降伏を強いられたドイツが、中央政府を否定され、連合軍による直接統治を余儀なくされたのに対して、日本は「ポツダム宣言」に列記された条件に同意した「勝者の条件の敗者による無条件受諾」だったといえる。
日本においては、占領政策は天皇を含む日本政府を通じて、実施されめことになった。