第二次世界大戦時の戦犯処罰は、1941年10月25日にチャーチル英首相が、ナチス・ドイツの残虐行為の処罰を戦争目的に加えようと声明した時に動き出した。
この戦犯処罰が、枢軸国の国家改造計画に組み込まれるのが第二次世界大戦時の戦犯問題の特質である。
この戦犯処罰が、枢軸国の国家改造計画に組み込まれるのが第二次世界大戦時の戦犯問題の特質である。
943年11月1日に米英ソ三国によるモスクワ宣言はドイツの主犯犯罪人である指導者を連合軍諸政府の「共同決定」で罰する方針を示した。
しかし「自国民(ユダヤ系ドイツ人)に対する行為」は内政問題であり「戦争開始前における行為」も福家ことの2点で、既存の戦争犯罪に収まらない特殊性の高い行為だったため、一般市民に対する非人道的行為を国際犯罪とする「人道に対する罪」がつくられたのである。
しかし「自国民(ユダヤ系ドイツ人)に対する行為」は内政問題であり「戦争開始前における行為」も福家ことの2点で、既存の戦争犯罪に収まらない特殊性の高い行為だったため、一般市民に対する非人道的行為を国際犯罪とする「人道に対する罪」がつくられたのである。
そして、米英仏ソの法律家がナチス戦犯処罰について審議したメンドン会議(1945年6月26日~8月8日)で、侵略戦争の計画、開始を犯罪とする「平和に対する罪」が作られた。
このロンドン会議の結果、2015年8月8日に、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」の二つの事後法が生まれたのである。
ナチス指導者24名と6つの組織を審理するニュルンベルク国際軍事裁判は1945年11月20日に始まり翌年10月1日に刑を言い渡した。
判決時の被告人22名のうち有罪が19名(絞首刑12、終身刑3、有期刑4)、無罪が3名だった。
判決時の被告人22名のうち有罪が19名(絞首刑12、終身刑3、有期刑4)、無罪が3名だった。
ちなみに、ムッソリーニの最期は即刻処刑だったが、「彼は裁かれないように殺害された」といわれる。
つまり「文明の裁き」の根幹は「即決処刑の否定」という点にこそあったのである。
つまり「文明の裁き」の根幹は「即決処刑の否定」という点にこそあったのである。