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2015年10月11日日曜日

堤康次郎の突然の死により、相続税の問題が急浮上した。
特に、遺産相続では、株を法人名義にしていた事で、康次郎の個人資産を極力少なくし、巨額の相続税を逃れている。
総会屋への不正利益供与事件で、西武の暗部にメスを入れた東京地検特捜部だったが、借名株問題をきっかけとした相続税脱税疑惑まで踏み込む事はなかった。
堤康次郎は鳩山一郎派の衆議院議員で、衆議院議長も務めた。
当初、康次郎は政治の後継者として、四男の康弘を充てようとしていたが、1964年に死去した後、1967年の総選挙で康次郎の選挙区から後継候補として出馬、初当選したのは山下元利だった。
当時、身内でもない山下が康次郎の選挙地盤をなぜ引き継げたのか謎だった。
山下元利は、東大法学部卒業後に大蔵省入省、主税局国税第一課に配属された。その時の課長が池田勇人だった。
山下は戦後に、鳩山一郎の秘書官を務めた事もあり、鳩山内閣が総辞職したのちに大蔵省に戻り、1962年から3年間、主税局第一課長を務めている。
康次郎の死の翌年の1965年に、池田勇人の地元の広島国税局長に就任していた。
コクドの借名株の目的は、同族認定を回避することにあり、同時にこの処理が相続税対策にもなるという脱税工作だった。
税制のプロとして、堤家の相続問題処理に知恵を授けた功績により、堤家の支援を勝ち取ったとみる穿ったシナリオもあるのかもしれない。
西武の宅地造成は、廃道手続きを無視し、青地や赤道の破壊など、社会の決まり事を無視して勧められる。
青地とは、地租税を免除された法面、赤道とは江戸時代以前から存在した生活道路のことで、これらは本来は行政財産であり、自治体の議会の承認を得ずに潰すと、違法行為となる。
西武は、行政とのトラブル、地域住民とのトラブルが恒常化し、そこに様々な裏社会の人達が介入してくるのである。
堤康次郎の公私にわたり、様々な後始末をしてきた為、あまりにも裏を知りすぎた事で、西武退職後は冷遇されていた顧問弁護士の中嶋忠三郎が1980年代後半になって、回顧録を執筆した。
ところが、その直前に堤義明によって、発売寸前に全冊を買い占めてしまい、世に出ることはなかった。
中嶋が律儀に「このような本を書きました」と見本本を堤清二と義明に届けた所、義明は慌てて買占めた後、中嶋に8000万円の小切手を届けてきたという。
1億円から源泉徴収した残りの金額ということらしい。
堤家として、さんざん世話になった中嶋の葬儀にも七回忌の法要にも堤義明は線香1本もあげに来なかった。
これに不満を抱いた中嶋の親族が、伊藤誠一・常務から聞いた総会屋に関する情報を知人のジャーナリストに話した事が発端となって、2004年の西武騒動に発展したというのが真相のようである。

西武王国―その炎と影

鎌倉市、逗子市、横須賀市にまたがる三浦半島内陸部に境界が画定できていない西部所有の不動産がある。
この地区には、半島中央部を縦貫する横浜横須賀道路(横横道路)が走っているが、これが建設される以前に、西武は道路施設用地を先行取得して巨額の利益を得ている。
堤康次郎が三浦半島に目を付けたのは古く、太平洋戦争中だった。
米軍の本土上陸作戦の予測地として相模湾が想定されており、本土決戦となる「コロネット作戦」の対象エリアが江の島から鎌倉にかけての海岸線だった。
その情報を得た堤康次郎は、軍部への売り付けを意図して、当該地区の土地を先行取得した事により、現在も鎌倉七里ケ浜周辺を中心に西武鉄道の分譲地が多くある。
日本の敗戦で「コロネット作戦」は幻となったが、先行取得した土地を、戦後の宅地ブームの中で転用し巨額の利益を得た。
七里ケ浜の宅地造成で出た大量の土砂の置き場として海浜を借用していたが、その近くに建設した七里ケ浜ホテルの付属施設として、改版に積上げた残土を固め、波打ち際にコンクリートで護岸工事をし、ホテルの客用駐車場を建設した。しかも、後にその土地の払い下げを受け、日本では珍しい私有海岸線を手に入れている。
海岸法の定めによって、日本では海浜の私有は認められていないが、コンクリート護岸ということで「海浜」ではないとされ、払い下げが可能になるという論法で手に入れた。
他にも、戦中・戦後にかけて、堤康次郎のもとに大量の鉄道関連資材が鉄道連隊から払い下げられており、それらを放出することの見返りとして、高田馬場=西武新宿間の路線免許を受けている。
堤康次郎は、戦後に旧皇族、華族所有の不動産を軒並み安価に買収し、一等地を手に入れている。
グランドプリンスホテル赤坂は旧朝鮮の李王邸、グランドプリンスホテル高輪は竹田宮邸、グランドプリンスホテル新高輪は北白川宮邸、品川プリンスホテルは毛利公爵邸だった。
港区白金台にある東京都庭園美術館も朝香宮邸を西武鉄道が買収し、白金迎賓館として使用した後に、東京都に売却している。
買収に失敗したのは、旧東久邇宮邸(国有地)ぐらいで、これは京浜急行電鉄が買収し、シナガワグースが建っている。
他にも、吉田茂の死後に神奈川県大磯の吉田邸を西武鉄道が買収し、伊藤博文の別邸だった滄浪閣(そうろうかく)は、大磯プリンスホテルの所有となってからは中華料理店として利用していた。
西武グループにとって、1964年開業の東京プリンスホテルが本格的な大型輪輝の一号店となる。
当時、東京オリンピックを控え、ホテル不足解消のため、吉田茂から堤康次郎が要請を受けて建設された。
本来ならばホテル建設が認められない風致地区内ら特別許可を受けて建てたが、隣接する増上寺との間で歴史的墓地の歯かいや土地境界をめぐる紛争を発生させている。
そこは元々、増上寺の土地を挟んで、両側が徳川家の所有地だったが、明治になってから廃仏稀釈政策によって、増上寺の土地が全て国に召し上げられ、後に返還されるという経過をたどっている。
その為、増上寺と徳川家、国有地が入り乱れ、境界線も曖昧になっていた。
しかも、敗戦後の混乱期には、徳川家の土地に引揚げ社者や戦災で家を失った人達が不法にバラックを立てて住んでいた。
堤康次郎は、揉め事を抱えている物件に目を付け、買い叩いて手に入れるのが常套手段としており、この増上寺の物件も手に入れた後、不法占拠していた人達を追い払った。
これに対して、東京都は風致地区を「掃除してくれた」として感謝したという。
しかも、ホテル本体を建設する際に、14代将軍・家茂の正室「皇女和宮」も含む徳川家の墓所の移設を待たずに勝手に壊して、増上寺との間で紛争を起こしている。
それも、お彼岸の中日に断行したという。
日本において、都市ホテルがビジネスになるようになったのは、1963年に開業した東京ヒルトンホテルからと言われている。
システムが従来の月単位から日単位となり、予算即決算となった事で、旅館からホテル経営に進化した。
ヒルトンを誘致したのは東急で、1950年代に日産コンツェルンの鮎川義介が五島慶太に話を持ち込んみ、東急が持っていた赤坂の星ケ岡茶寮の場所にホテルを建てて、ヒルトンに業務運営を委託するという契約で誘致した。
五島昇は、ヒルトン創立者のコンラッド・ヒルトンのホテルビジネスに関心が強く、自ら訳した『ホテル王ヒルトン』という本まで出版している。
このヒルトン流の近代的ホテル経営を学ぶことで、東急ホテルズは運営されてきた。

ホテル王ヒルトン (1959年) (時事新書)

堤康次郎が手掛けた西武グループの特徴は、徹底した過少資本経営だった。
経営資金の大半を間接金融に依存していた為、西武鉄道の資本金は極端に小さく、2004年の上場廃止時の資本金は217億円に過ぎなかった。
これにより品薄株としての性格を保つことで、株式市場における高株価を継続させていた。
キュレーション不在のレビューサイトは魅力が無くなってきている。
「食ベログ」のランキングは、キュレーションとして作用しておらず、くだらないレビューと星で、それを立証しており、全く役に立たない。
Amazonのレビューも殆ど参考にならず、星の意味が全く分からない。
例えば「星1つ」の酷いレビューが書かれているのを見ると、明らかにその本を読んでもいない人が書いている。
「この本の表紙が黄色なのが気に食わないから星1つにしました」とか、全然意味が分からないレビューが相当ある。
クオリティの低い、素人の書評ほど無意味なものはない。
本好きの人は、結構な確率で紙の本を買う。
だから電子書籍はいまいち盛り上がらない。
結局、電子書籍は、本を読む人しか読まないし、前提として本好きの人以外は電子書籍を買わないからである。
Amazonランキングの「歌謡曲・演歌」部門で の 売れ筋ランキング1位の『成り上がり How to be BIG―矢沢永吉激論集』の構成を担当しているのは、糸井重里氏であり面白くないわけがない。
この本を出してのは、矢沢永吉が28歳の頃だが、彼は既に独自のスタイルを確立させており、決して舞い上がらず、自分の目標に向かってストイックに努力する姿が書かれ、誰もが引き込まれる。
矢沢のファンでなくても「矢沢ワールド」に吸い寄せられていまう。

収監されると、部屋に置いてある『被収容者の手引き』を読めば、刑務所でどんなことをするか知る事ができる。
ただ、この内容だけでは物足りない。
ホリエモンは佐藤優氏から、『逐条解説 刑事収容施設法 改訂版』を読むように勧められ、為になったという。
この本は、これから刑務所に入る人にとって、そのルールを知るマストな1冊となる。
刑務所のルールにも、表ルールと裏ルールがある。
例えば「発信」、つまり外に手紙を出す行為については、「刑事収容施設法」という表ルールがあり、受刑者の優遇区分で下に位置する五類の場合、月4回まで、三類と四類は月5回まで、二類になると月7回の発信ができるとされている。
そして、月に1度の発信日が設けられ、便箋は官が指定したもの7枚まで、1枚あたりの文字数は法律では「400字以上を認める」となっている。
つまり最低400字といいうことになっており、枚数は上限が設定されているのに、なぜか文字数では1枚あたりの下限が設定されているのである。
更に刑務所毎にローカルルールがあり、長野刑務所では「400字程度にしろ」となっている。
ホリエモンは、なるべく多く発信したかったらしく、最初は1枚に1200字くらい書いたら、「字が小さいぞ」と怒られ、次回から「600から800字」にしたら、黙認されてという。

逐条解説 刑事収容施設法 改訂版 (有斐閣コンメンタール)