堤康次郎の突然の死により、相続税の問題が急浮上した。
特に、遺産相続では、株を法人名義にしていた事で、康次郎の個人資産を極力少なくし、巨額の相続税を逃れている。
特に、遺産相続では、株を法人名義にしていた事で、康次郎の個人資産を極力少なくし、巨額の相続税を逃れている。
総会屋への不正利益供与事件で、西武の暗部にメスを入れた東京地検特捜部だったが、借名株問題をきっかけとした相続税脱税疑惑まで踏み込む事はなかった。
堤康次郎は鳩山一郎派の衆議院議員で、衆議院議長も務めた。
当初、康次郎は政治の後継者として、四男の康弘を充てようとしていたが、1964年に死去した後、1967年の総選挙で康次郎の選挙区から後継候補として出馬、初当選したのは山下元利だった。
当時、身内でもない山下が康次郎の選挙地盤をなぜ引き継げたのか謎だった。
当初、康次郎は政治の後継者として、四男の康弘を充てようとしていたが、1964年に死去した後、1967年の総選挙で康次郎の選挙区から後継候補として出馬、初当選したのは山下元利だった。
当時、身内でもない山下が康次郎の選挙地盤をなぜ引き継げたのか謎だった。
山下元利は、東大法学部卒業後に大蔵省入省、主税局国税第一課に配属された。その時の課長が池田勇人だった。
山下は戦後に、鳩山一郎の秘書官を務めた事もあり、鳩山内閣が総辞職したのちに大蔵省に戻り、1962年から3年間、主税局第一課長を務めている。
康次郎の死の翌年の1965年に、池田勇人の地元の広島国税局長に就任していた。
山下は戦後に、鳩山一郎の秘書官を務めた事もあり、鳩山内閣が総辞職したのちに大蔵省に戻り、1962年から3年間、主税局第一課長を務めている。
康次郎の死の翌年の1965年に、池田勇人の地元の広島国税局長に就任していた。
コクドの借名株の目的は、同族認定を回避することにあり、同時にこの処理が相続税対策にもなるという脱税工作だった。
税制のプロとして、堤家の相続問題処理に知恵を授けた功績により、堤家の支援を勝ち取ったとみる穿ったシナリオもあるのかもしれない。