Amazon

2016年7月13日水曜日

派閥の効用の一つに、党としてバランスが取れる点がある。
派閥があることによって、極端に右にも左にも行かないというバランスが取れていた。
かつての自民党の層が厚く、幅が広く、バランスが取れたいた政治というのは、派閥の効用なのである。
小選挙区制導入以来、今や派閥は名前だけになり、効用というのは殆どなくなってしまった。
政治資金も派閥では、なかなか集まらない。
かつての派閥のリーダーは殆どが次期総理候補だったから、そこに集まる政治家たちは自分のリーダーを総理にするという明確な目標を持っていた。
自分ま派閥から総理をつくるための基本理念、基本政策、ライバルとの差別化をどう出していくかをいつも考え、切磋琢磨していく必要があった。
そういう態度が自民党から消えてしまった。
派閥政治は、ものすごく悪いもののように言われているが、小選挙区制反対の時に、小泉純一郎が派閥の効用について語っていた。
つまり、1つの選挙区から党の公認候補が1人となる小選挙区制は、総裁や幹事長の権限を肥大化させて独裁となるが、派閥はそれを防ぐ、と言っていた。
ところが小泉は、小選挙区制が実現したら、悪用して刺客選挙をやって派閥反対の立場を取り、全く筋は通っていないが、小選挙区制反対時点の小泉の指摘には見識があった。
かつて加藤紘一は、他派閥からも出られたのに、日中友好の姿勢に共感して大平正芳のところに行く。
中曽根康弘は加藤の妻の父親代わりのような存在だった事もあり、加藤は中曽根と近くも中曽根派から「うちに来い」と誘われたが断った。
これは派閥が政治家育成の重要な土壌だった時代をうかがわせる話である。
派閥の弊害が言われすぎた結果、様々な考え方の政治家が、その立場を育てていけるような環境が無くなり、単一化されてしまった。
河野洋平は、「小選挙区制というのはハト派を消していく」と言った。
自民党から1人という話になると、どうしても威勢のいいタカ派が出る事になってしまうというのである。
なぜ自民党の派閥が最低5つあったかというと、これは中選挙区の最大定数が5人だったからである。
自民党から5人立候補して争うことになると、それをサポートして面倒を見る派閥が必要だから、必ず最低5つは派閥が必要となった。
松下幸之助について、堤清二が冷やかしている。
一緒に中国へ行ったら、松下幸之助がここはすごい国だと、全体主義的なところに感心したという。
それで堤が、「松下さん、ここ共産主義の国ですよ」と言うと、松下は「彼らの目を見ろ。そんなはずがない」と言ったという。
共産主義の全体主義的な部分が、日本の会社主義とビッタリ合ってしまっていたのである。
吉田茂は、GHQの言う通りに戦後体制を固めていった。
1947年に、吉田内閣の蔵相だった石橋湛山を公職追放したのは吉田だった。
「Y項パージ」と呼ばれる吉田による政敵追放であり、これはその後の「赤狩り」とも連動していく。
こういう人物を単純に評価して礼賛してしまうと、歴史を誤ってしまう。
しかし、日本の戦後体制を西側陣営の自由主義、民主主義、資本主義、そして平和主義で行くとしう方向に決め、戦後の目標を国際社会への復帰と復興も軽装備経済優先と定めた政治家だった。
この過程で日本は血を一滴も流していない。
朝鮮戦争とベトナム戦争の裏では特需的な経済の恩恵ほ受けたのだから、戦争に加担したとは言えなくもないが、実際には自衛隊を派遣していない。
軽装備、つまり憲法改正はしないという保守の知恵、吉田茂こそが解釈改憲のスタートだった。
日米関係は極めて難しい時代になってきている。
1つの判断材料は、共和党と民主党というアメリカの2つの政党と日本との関係である。
民主党はバックグラウンドが労働組合とマイノリティで、経済摩擦が起きた時には対日強硬路線をとる。
アメリカ経済が良い時は、民主党は穏健だが、アメリカ経済がダメになると必ず、貿易摩擦、経済摩擦に火が付くが、その火の付き方は民主党の方がきつい。
この点は、労働組合を背景にした政党の一つのパターンで、かつての英国の労働党、ドイツの社民党、イタリアの社会党は全て共通点がある。
歴史上の視点や国際法上の正当性をすり合わせていくのは必要な事であるが、相手側がなぜそこまで領有権を主張してくるかとう背景について、我々は配慮する必要がある。
日本が尖閣の領有権を決めたのは1895年で、日清戦争後の台湾を植民地化した年である。
竹島は1905年で、1904年に日露戦争が起こり、1910年に朝鮮を併合する。
台湾植民地化以降の20年間で、一気に日本は欧米列強の仲間入りを果たした。
彼らは屈辱の歴史についてこれまでは口にしてこなかったが、今は自信を持ってきたため、彼らはその時代に立ち返り、我々があんな負け方をするはずがない、日本は卑怯なやり方でかすめ取ったと考える。
中国の右派は、周恩来・鄧小平から連綿と続いてきた路線を完全否定して、植民地主義、帝国主義へ逆拡張政策を取っており、尖閣棚上げは許さない、と主張しているのである。
中国右派にとって、戦後処理の正当性は、「日本が中国から奪った全ての大気を中華民国に返還する」と定めた1943年のカイロ宣言、またカイロ宣言の履行を促し「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに連合国が決定する諸小島に限定する」としたポツダム宣言なのである。
だから彼らは、アメリカ中心のサンフランシスコ講和体制を否定している。
この厄介な状況を突破する知恵が今の安倍政権にはない。
現在の日本は昭和初期に似ており、右傾化、政党政治が不信感を持たれている。
昭和初期は、政治不信がたまった結果、中国をこらしめる道に進んだ。
大衆的な反中感情がかき立てられて、そこから謀略によって戦争に持って行かれた。
このまま行くと中国も韓国も強気になってくるだろうし、彼らは決して譲らない。
これとどう向き合うか、今こそかつてのアジア平和外交で発揮された保守の知恵が必要とされている。
2012年に野田佳彦総理が、尖閣諸島を国有化したが、この「国有化」という言葉を使ったこと自体が、結果的に石原慎太郎にはめられたと言われている。
しかも、それを最初に言い出したのが7月7日で、盧溝橋事件の日だった。
中国からすると、よりによって何故この日に国有化と言い出すのかという事になった。
さらに、閣議決定が9月10日で、野田・胡錦濤会談をやった翌日に閣議決定をしてしまい、胡錦濤からするとメンツ丸潰れとなった。
日本はあえて、そういう日を選んで尖閣の国有化という強行手段に出て来たと取られても仕方がない。
今の日中関係を考える上で、「中国は基本的に戦時賠償を取らなかった」という事が、政治家もメディアも日本国民の中国認識から抜けている。
かつては経済界にはこの点を認識していた経済人が存在した。
新日鐵の稲山嘉寛や徳間書店の徳間康快などは「中国からは儲けるな」という考えを持っていた。
稲山が手掛けた宝山製鉄所などは、無償で作り、殆ど技術供与だった。
中国が戦時賠償を取らなかったという事は、その後の日本にとって大変な事になり、尖閣が日本の正当な領土かどうかという所にも直結する。
歴史的経緯のずれで、日本が戦後処理をした時の中国側の相手は台湾政府で、当時は中国共産党政権は生まれていなかった。
しかも国連でも1971年までは中国の代表権を台湾に与えていた。
だから日本の外務省は、「中国との戦後処理は全て台湾との間で終わっている」と突っ張ってきた。
これに対して、日中国交正常化の頃の中国共産党政権からは「戦後賠償も領土問題も、全て一から交渉すべき」と主張していた。
日中国交正常化交渉の中で、青嵐会らの尖閣に関する突き上げについて、主張したよというアリバイ証言として、田中角栄は周恩来に突然「ところで尖閣は、どうしましょうか」と言ったという。
後に、この発言について、同行した大平外務大臣も想像していなかったと語っている。
そして周恩来は、「それは置いておきましょう」と答えた。
つまり、棚上げというよりも、横へ置いておき、今回は触れないとしたのである。
さらに、周恩来は「あそこに資源があるから尖閣はいろいろと問題になっているけれども、資源がなければ何ということはない」と言ったと、表には出ていないが、確かに記録されている。
現在の日中関係の悪化をもたらした原因の一つは、2012年に石原慎太郎・都知事が尖閣購入発言をしたのをきっかけに、尖閣諸島を国有化してしまった事である。
ちなみに石原慎太郎は、1978年の福田内閣の時の日中友好条約に衆議院外務委員会では賛成して、本会議では棄権している。
本会議でも反対したのは、浜田幸一と中山正輝と林大幹の青嵐会の3人だけで、青嵐会幹事長の石原慎太郎は、本会議で棄権している。
石原晋太郎は、すごく勇ましく、対中強硬派として右翼的に一貫していたわけではないのである。
2016年4月の衆議院北海道5区の補欠選挙を機会に、自民党に寝返った鈴木宗男と菅義偉・官房長官には類似点がある。
鈴木は中川一郎の秘書で、菅が小此木彦三郎の秘書で、共に息子と跡目争いをしており、ある意味で「主殺し」という共通点がある。
「主殺し」は政界では大変なことであり、そのトラウマを理解し合う仲なのである。
安保法制をめぐる国会での攻防の裏で、2015年の創価学会の人事では、集団的自衛権に反対し、創価学会を本来の平和主義の宗教団体に戻そうという志向を持っていたとされる正木正明・理事長が左遷され、集団的自衛権賛成派の谷川佳樹・副会長がさらに重用されるようになった。
谷川派は、菅官房長官とも近く、創価学会としては、ますます事項体制を強化する志向となっている。
創価学会の歴史を振り返ると、最終的には全て政権に屈服してきている。
石橋湛山が最も可愛がったのは池田勇人だったという。
その池田が可愛がったのが田中角栄だった。
つまり、石橋ー池田ー田中という経済的平和主義の見えないラインがあった。
田中角栄は佐藤派だったが、考え方は池田に近かったので、池田は田中が若いうちから大蔵大臣として重用した。
だから、池田直系の大平と田中が結びつくのは不思議ではなく、また田中内閣で実現した日中国交正常化は、大平の存在抜きには有り得なかった。
その後、この流れの跡を継ぐべき加藤紘一と河野洋平が、保守リベラルを担うには弱すぎたのである。
今振り返ると、加藤の乱こそが、宏池会の終焉だったといえる。
宏池会を外して密室で決められた森喜朗の総裁就任は、今だに禍根を残している。
自民党における保守の変質を考える上で、最も大きいのが経世会の分裂である。
宏池会は保守リベラル、清和会はタカ派、その真ん中に経世会が座っていた。
そもそも自民党の保守本流というのは、吉田茂・自由党であり、そこから池田勇人、佐藤栄作の時代がくる。
池田の流れが池田ー大平ー宮沢ー加藤、佐藤の流れが佐藤ー田中ー竹下ー橋本ー小渕となる。
経世会は佐藤ー田中の流れの実利主義に徹し、宏池会と清和会のバランスをとる重要な調整役を担っていた。
それが保守本流を支えていた経世会から小沢一郎と羽田孜が飛び出し細川政権を作ってしまい、経世会が分裂したことが、今に至る政治的混乱を考える上で、大きな出来事なのである。
自民党と公明党の連立政権を振り返ると、1999年に第二次小渕内閣で自自公連立が成立した時、これに反対したのは加藤紘一と野中広務だった。
しかし、官房長官だった野中は、公明党を巻き込まないと、小選挙区制では自民党の票だけでは当選できないという事に気づき、転身する事となる。
その時から、創価学会を巻き込んだ者が、自民党を動かすようになり、その構造が現在まで、ずっと続いているのである。
安倍晋太郎は、息子の晋三に、「晋三、私は岸の娘婿じゃないからな。間違うなよ。私は安倍寛の息子だからな。反戦平和だからな」と言ったという。
安倍晋太郎の父親である安倍寛は、日中戦争の時に、近衛文麿首相が対中政策の方針として三回に渡り発表した「近衛声明」(第一次声明では「国民政府を対手とせず」と述べ、蒋介石政府との交渉打ち切りを表明し、戦争終結の道を閉ざした)に反対している。
第二次世界大戦中の翼賛選挙でも東条英機を批判して、非翼賛から立候補し当選し、議員時代は、毎日、憲兵が付いていたという。
安倍寛は早くに死んでしまったが、戦時中は三木武吉と国政研究会をつくり、戦争終結に向けた流れを形成しようとした歴史もある。
東芝の不正会計問題は、明らかな粉飾決算だが、司直の手が入らないということは、東芝が国家産業であり安倍政権に保護されているという事を示している。
東芝は、粉飾決算後の大リストラでも、軍事部門と原発部門には殆ど手を付けていない。
「国境なき記者団」は2016年の日本における「報道の自由度」を世界で72位にまで低下させた。
ほぼ発展途上国の独裁国家並みの扱いとしたのである。
また国連の人権理事会の調査団も、放送法4条の「公平・公正な報道」は、本来は報道する側の自主的な倫理規範であるということを承知の上で、「国家権力の介入の口実に使われるようであれば、削除・廃棄すべきだ」と勧告している。
安倍晋三政権は、第一次の時は上げ潮で出て来たが、事実上は小泉総理からの指令で勢いがあった。
しかし、再選の時は客観的情勢としては相殺に当選する可能性は無かった。
石破茂、石原伸晃、そして谷垣禎一が降りたが、この石破と石原は、「因縁の・石」と言われている。
岸信介が「石・石」、石井光次郎と石橋湛山にやられている。
第二次安倍政権は、角福戦争以来の40年ぶりの決戦投票だった。
そして、56年ぶりの逆転勝利だったのである。
石・石に逆転で勝利した安倍晋三は、祖父・岸信介の復讐戦に勝ったのである。
安倍は党員票では石破に圧倒的に負けており、議員票も石原に負けていた。
どちらも2位だったのに、逆転して勝ったのである。
吉田茂以来64年ぶりに総理への返り咲きで、安倍自身が「運命に守られている」と言ったという。
日本独自のものだが「和の政治」というのがあり、自民党の場合、総務会というのは全会一致が原則となっている。
その合意のための文書づくりというのがあって、様々な根回しが行われる。
欧米的な感覚からすると可笑しな事だが、日本の場合は最後は全会一致にするように努力しなければならない。
自民党の総務会で、全会一致しなかった事が過去に2回だけある。
1回目は日中国交正常化の時で、青嵐会が反対して大変だった時に、渡辺美智雄は総務会当日に「病欠」している。
つまり欠席による全会一致という形を取った。
もう1回は、小泉政権の郵政の時で、この時は多数決を取っている。
両院に設置される議院運営委員会と衆議院本会議で採択する決議は、全て全会一致であり、そこに持って行くためには、ものすごい技術と努力が必要となる。
国会対策委員会の議運族というのは、とてつもなく人間関係の貸し借りを勉強させられる。