石橋湛山が最も可愛がったのは池田勇人だったという。
その池田が可愛がったのが田中角栄だった。
その池田が可愛がったのが田中角栄だった。
つまり、石橋ー池田ー田中という経済的平和主義の見えないラインがあった。
田中角栄は佐藤派だったが、考え方は池田に近かったので、池田は田中が若いうちから大蔵大臣として重用した。
田中角栄は佐藤派だったが、考え方は池田に近かったので、池田は田中が若いうちから大蔵大臣として重用した。
だから、池田直系の大平と田中が結びつくのは不思議ではなく、また田中内閣で実現した日中国交正常化は、大平の存在抜きには有り得なかった。
その後、この流れの跡を継ぐべき加藤紘一と河野洋平が、保守リベラルを担うには弱すぎたのである。
今振り返ると、加藤の乱こそが、宏池会の終焉だったといえる。
今振り返ると、加藤の乱こそが、宏池会の終焉だったといえる。
宏池会を外して密室で決められた森喜朗の総裁就任は、今だに禍根を残している。
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