日本海軍にとって大きかったのは、大正10年のワシントン海軍条約で、イギリス5、アメリカ5、日本3という艦艇保有比率が決まったことである。
慌てて昭和3年に海戦要務令を第三次改定するが、昭和5年にロンドン海軍軍縮条約で、さらに艦船の数が制限されてしまう。
そこで出て来たのが、軍縮体制の破棄と更なる大艦巨砲主義への邁進であり、戦艦の数が制限されるのならば巨大な艦を造って質で対抗しようという流れになった。
昭和9年12月にはワシントン軍縮条約の破棄を通告するが、同年10月には戦艦大和の建造案が提出されている。
大和は艦幅が40メートルで、主砲が46センチだった。
大和は艦幅が40メートルで、主砲が46センチだった。
アメリカの戦艦はバナマ運河を通るために幅が32メートルまでに制限されていたので、主砲も40センチが精一杯だった。
アメリカの戦艦の砲弾が届かない距離から、大和が主砲をぶっ放せば米艦隊は殲滅できるという、見当違いの方向に進んでしまった。
つまり、日本海軍には世界戦略は無かったのである。
本気でアメリカを征服するならば、パナマ運河を通って、ワシントン、ニューヨークを叩くしかない。
しかし、大和も武蔵もバナマ運河を通れず、あくまでも日本の勢力圏を防衛することしかできない作戦を立てていたのである。
本気でアメリカを征服するならば、パナマ運河を通って、ワシントン、ニューヨークを叩くしかない。
しかし、大和も武蔵もバナマ運河を通れず、あくまでも日本の勢力圏を防衛することしかできない作戦を立てていたのである。
そして昭和12年に、全ての軍縮条約から脱して、いよいよアメリカとの決戦に備えて海戦要務令を改定し「対米漸滅邀撃作戦」を定めてから4年後に日米の戦闘が始まる。
昭和15年には零戦も存在し、航空戦力も潜水艦もその技術は飛躍していたが、海戦要務令の改定は、それ以上は行われないまま戦争に突入していく。
昭和15年には零戦も存在し、航空戦力も潜水艦もその技術は飛躍していたが、海戦要務令の改定は、それ以上は行われないまま戦争に突入していく。
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