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2016年9月26日月曜日

官僚体質を持つ陸軍に対して、合理的でスマートなイメージがある海軍だが、陸軍に負けず劣らず、組織の存続を第一義に置いていた。
それが最もよく現れていたのが、海軍の作戦方針である「海戦要務令」で、この変遷を見ていくと、日本海軍がいかに状況の変化に対応しきれなかったかが分かる。
海軍の「海戦要務令」は戦い方のマニュアルであり、陸軍の「統帥綱領」とは考え方は異なる。
陸軍の「統帥綱領」には、統帥とは指揮官が軍を指揮して運用することについて、つまり「国体」を守るために自分達はどのような機能を果たすかについて書かれている。
海軍は陸軍と違い組織の規模が陸軍の10分の1以下と小さいので、自分達が国家の骨幹になろうとは考えず、技術者集団だから統帥綱領といったものを全く考えていない。
ちなみに、終戦末期の昭和19年頃に海軍版の「統帥綱領」を作ろうとした形跡はあるが、完成しなかった。
海軍は戦闘に勝つことだけを考えていたが、海戦要務令を改正したと思ったら、世界で新しい動きが起き、いつも後手に回ってしまい、海軍は最後まで戦い方が分からなかったのが事実である。
最初の開栓要務令は、明治37年の日露戦争に備えて作られている。
日本海海戦の歴史的大勝利は、海戦要務令で闘って買ったとされてきたが、むしろ参謀の秋山真之による運用面の改革が大きかった。
例えば、「敵艦見ユ」を「タタタタ」、「ナナナナ」は「敵を攻撃せよ」、「カカカカ」は「敵と接触を保ちこれを監視せよ」とするなで、命令伝達のスピードアップを図った。
しかし、日本海海戦の勝因は、戦闘艦同士の勝負で勝ったことと、敵艦隊の進路をふさいで一斉砲撃を浴びせる「丁字戦法」で勝ったということになってしまった。
明治43年の海戦要務令の第1回改正を経て、大正元年に本格的な改正を加え、日本海海戦の展開そのままを、戦い方のスタンダードに決めてしまい、艦隊決戦思想に縛られて、太平洋戦争に突入してしまう。

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