1945年8月19日の午後3時半に行われたジャリコーヴォ会談の内容について、8月21日に秦総参謀長より大本営宛に報告を打電している。
そこには、ソ連との会談で取り決めた7カ条の「協定」が書いてあるが、その中には捕虜を本国へ一刻も早く帰還させることは出ていない。
第三番目に、「日本軍の名誉を重んず。これがため将兵の帯刀を許可し、また武装解除の取扱いも極力丁寧にす。解除後の将校の生活はなるべく今迄同様とす」とあり、これをソ連側は了承したと書いてある。
これは、日露戦争の乃木将軍がロシアのステッセル将軍に示した姿勢と全く同じであり、この帯刀に関しては相当こだわったようである。
第三番目に、「日本軍の名誉を重んず。これがため将兵の帯刀を許可し、また武装解除の取扱いも極力丁寧にす。解除後の将校の生活はなるべく今迄同様とす」とあり、これをソ連側は了承したと書いてある。
これは、日露戦争の乃木将軍がロシアのステッセル将軍に示した姿勢と全く同じであり、この帯刀に関しては相当こだわったようである。
将校には労働させないことについては、1907年のハーグ陸戦条約にもなっているのに、第三項では「将校の生活はなるべく今迄同様とす」とあるだけで、7項以下の電報は「未着」となっている。
この電報の記録を見る限り、将兵を速やかに本国へ帰還すべし、という要求をしていない。
この「以下未着」の部分に、何が書かれていたかについては、戦後に瀬島は一切語らなかった。
そして、合意をしたならばソ連側にも、その裏付けとなる資料が出て来くるはずでが、それも出で来ないという事は、ソ連側にも何か隠したいことがあるのかもしれない。
そして、合意をしたならばソ連側にも、その裏付けとなる資料が出て来くるはずでが、それも出で来ないという事は、ソ連側にも何か隠したいことがあるのかもしれない。
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