現代の日本では国民負担率が50%を超え、江戸時代の「五公五民」に戻ったと言われるが、江戸時代の現実の収穫量を考慮して検討すると実際には「三公七民」くらいだったようである。
当時は、どこの農村にも「隠し田」と言われる簿外の田があった。
隠し田には、当然年貢はかけられなかった。
あの二宮尊徳も年貢の課せられていない、あぜ道に作物を植えて、稼ぎの足しにしていたという。
隠し田には、当然年貢はかけられなかった。
あの二宮尊徳も年貢の課せられていない、あぜ道に作物を植えて、稼ぎの足しにしていたという。
江戸時代の記録では日本全国の収穫量は3222万石となっていたが、明治時代に入り、地租改正のために全国の農地を測量してみると、実は4684万石もあったことが分かったという。
名目の1.5倍もあり、相当の「隠し田」があったのである。
名目の1.5倍もあり、相当の「隠し田」があったのである。
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