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2016年5月9日月曜日

日本人の多くが、日ソ中立条約があったにもかかわらず、日本がポツダム宣言を受託して無条件降伏した後に、ソ連軍が侵攻を続け、北方領土を不法占拠し、以来、実行支配が続いていると思い込んでいる。
しかし、史実は異なる。
連合国側で戦後の対日政策が最初に協議は、1943年12月1日に開かれたカイロ会談で、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席の3首脳により、日本が占領した太平洋の島々の剥奪、満州、台湾、澎湖島の中国返還、朝鮮独立を盛り込んだカイロ宣言が発せられ、その後のポツダム宣言に繋がっていく。
その後、1945年のヤルタ会談では、ドイツの分割統治、ポーランドの国境策定など主に欧州の戦後処理を中心に協議された。
対日政策については、ヤルタ会談に先立って、1945年2月11日にルーズベルト米大統領、スターリンソ連共産党書記長、チャーチル英首相の間で秘密協定が交わされ、「ヤルタ協定」として取りまとめられた。
スターリンは南樺太の返還と千島列島の領有を主張し、ルーズベルトはこれを認める代わりに、スターリンに日ソ中立条約の破棄と対日参戦を求めた。
このヤルタ協定で、ドイツ降伏後2ヶ月ないしは3ヶ月というソ連の対日参戦の時期が決定した。
ソ連は1945年4月5日に日ソ中立条約の不延長を通告し、ドイツが無条件降伏した1945年5月の3ヶ月後に当たる8月8日にソ連は日本に宣戦布告して、ソ連軍は満州、南樺太、朝鮮半島に侵攻した。
千島列島に到達したのは、日本がポツダム宣言を受諾した8月14日だった。
従って、ソ連が日ソ中立条約を破り、南千島を不当占拠したという日本政府の主張は間違いであり、戦争は既に終わっており、日本は無条件降伏していたのである。
満州、南樺太、千島列島に対するソ連の出兵はアメリカの強い要請であり、戦利品として北方四島を含む千島列島をソ連が得ることをアメリカは承認していたのである。
実は当時、スターリンは北海道を南北に割って北半分をソ連が占領する事をルーズベルトに要求していた。
しかしドイツ降伏直前にルーズベルトは病死し、後任のトルーマンはスターリンの要求を拒絶し、代わりに南樺太の返還と南クリル(北方四島)を含めた千島列島の領有をソ連に提案したのである。
このことを日本政府は理解していた為、戦後10年以上北方領土の返還を求めず、1951年のサンフランシスコ講和条約においては、早期講和のために日本は千島列島の領有権を一度放棄している。
日本政府が「放棄した千島列島に北方四島は含まれない」という立場を取るようになったのは、日ソ共同宣言が出された1956年になってからである。
サンフランシスコ講和条約にソ連はサインをしていないので、日ソの国交正常化は日ソ共同宣言によってなされるが、この時に平和条約を締結した後に、歯舞、色丹の2島返還で両国は妥結寸前まで交渉が進んでいた。
しかし1956年8月に重光外相とダレス米国務長官によるロンドン会談で、沖縄返還の条件としてソ連に対して北方四島の一括返還を求めるように迫られ、ソ連との交渉を断念。
平和条約は結ばれず、1956年10月に署名された日ソ共同宣言では領土問題は先送りとなった。

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