「関西という語が用いられるようになったのは、鎌倉幕府が六波羅探題を設置して以降であるという。
六波羅探題の任務は、京都の朝廷の監視で、その機能は単なる監視を超え、畿内以西の御家人を統括する鎌倉幕府の京都支所の役割を担うようになっていく。
承久の乱以前は、鎌倉幕府は東国を主たる支配権とする地方の王権でしかなかったが、六波羅探題が設置されたことで、鎌倉幕府は日本列島のほぼ全域を支配していると見なし得る状態が確率された。
「関東」という呼び方は以前からあった。
それは、京都側から鎌倉を呼ぶときに使われたもので、つまり他称であった。
承久の乱以降、「関東」が東国の鎌倉幕府によって自称として用いられるようになるとともに、鎌倉を視点にして京都を含む西側が「関西」と呼ばれるようになった。
「関東/関西」という対が、視点を西から東へ移したことになる。
それは、京都側から鎌倉を呼ぶときに使われたもので、つまり他称であった。
承久の乱以降、「関東」が東国の鎌倉幕府によって自称として用いられるようになるとともに、鎌倉を視点にして京都を含む西側が「関西」と呼ばれるようになった。
「関東/関西」という対が、視点を西から東へ移したことになる。
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