1927年(昭和2年)に起きた金融恐慌の際に、予算委員会で片岡蔵相が推移を確認せずに「・・・現に今日、とうとう渡辺銀行が破綻いたしました」と失言してしまった事で、取り付け騒ぎが起き、渡辺銀行は本当に破綻してしまった。
東京渡辺銀行は、1877(明治10)年に第二十七国立銀行として設立され、1904年に二十七銀行と改称、1920年に東京渡辺銀行となった。
破綻時の東京渡辺銀行は、資本金が500万円で大株主の殆どが渡辺一族で占められていた。
渡辺家は播州明石の出身で、徳川八代将軍吉宗の時代に明石から江戸に来て、日本橋で海産物を商う店を創業し、銀行経営まで乗り出すようになったのは、九代目治右衛門の代だった。
この頃の渡辺家の羽振りの良さは相当なもので、明治中期の長者番付にも名前が入っている。
1890(明治23)年の「方今 長者鑑」という資料によると、行司の筆頭が岩崎弥之助、東方大関が渋沢栄一、関脇が大倉喜八郎、小結が住友吉左エ門、前頭一枚目が五大友厚、同二枚目が安田善次郎と続き、同三枚目に渡辺治右衛門が出ている。
1890(明治23)年の「方今 長者鑑」という資料によると、行司の筆頭が岩崎弥之助、東方大関が渋沢栄一、関脇が大倉喜八郎、小結が住友吉左エ門、前頭一枚目が五大友厚、同二枚目が安田善次郎と続き、同三枚目に渡辺治右衛門が出ている。
だから、特定の事業会社や個人の資金調達を目的として預金を集めた「機関銀行」とはいえ、決して吹けば飛ぶような弱小銀行ではなかった。
0 件のコメント:
コメントを投稿