三島由紀夫は、体が弱かった。
20歳で徴兵検査を受けるが、第二乙種だったので、兵隊に行かなくて良かった。
しかし、日本の戦況が次第に悪くなり年寄も戦場に駆り出されるようになって、第二乙種の三島も入隊検査を受けることになる。
徴兵検査の後に、入隊検査があったのだが、その日、三島は風邪をひいて高熱だったため、肺浸潤と診断され即日桔梗を命ぜられ、戦争に行かずに済んで助かった。
20歳で徴兵検査を受けるが、第二乙種だったので、兵隊に行かなくて良かった。
しかし、日本の戦況が次第に悪くなり年寄も戦場に駆り出されるようになって、第二乙種の三島も入隊検査を受けることになる。
徴兵検査の後に、入隊検査があったのだが、その日、三島は風邪をひいて高熱だったため、肺浸潤と診断され即日桔梗を命ぜられ、戦争に行かずに済んで助かった。
その様子を父親の平岡梓が『伜・三島由紀夫』の中でこう書いている。
「(入隊検査の会場の)門を一歩踏み出るやせがれの手を取るようにして一目散に駆け出しました。早いこと早いこと、実によく駆けました。どのくらいか今は覚えておりませんが、相当の長距離でした。しかもその間絶えず振り向きながらです。」
「これはいつあとから兵隊さんが追いかけて来て、『さっきは間違いだった、取消だ、立派な合格おめでとう』と怒鳴ってくるかもしれないので、それが怖くて仕方なかったからです」
「これはいつあとから兵隊さんが追いかけて来て、『さっきは間違いだった、取消だ、立派な合格おめでとう』と怒鳴ってくるかもしれないので、それが怖くて仕方なかったからです」
だから三島は、その時に助かったと思ったのである。
それが同世代の中でのコンプレックスとなって、戦後は逆の方向に向かったのである。
戦争に行かなかった人ほど勇ましいことを言うが、三島の思想の根底には、この自らの体験が根強くあったのである。
それが同世代の中でのコンプレックスとなって、戦後は逆の方向に向かったのである。
戦争に行かなかった人ほど勇ましいことを言うが、三島の思想の根底には、この自らの体験が根強くあったのである。
実際に、軍隊で非人間的なものを体験した城山三郎は、三島由紀夫の事を「あの人は戦争に行かなければならなかった人だよね」と軽蔑したような言い方をしていたという。
この卑怯者の汚名をそそぎたいというのが、戦後の三島の行動だったのだろう。
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