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2016年9月4日日曜日

戦前の言論統制が厳しかった時代に、軍部に物を申すような骨のある新聞記者がひとりいた。
明治末から昭和初期にかけて、長野県の地方紙である「信濃毎日新聞」の主筆を務めた桐生悠々(きりゅう ゆうゆう)である。
満州事変の2年後に、5・15事件の翌年という時期に、日本で軍部の台頭が進みつつあった1933年8月11日に、悠々は信濃毎日新聞に「関東防空大演習を嗤う(わらう)」と題した社説を書いた。
その2日前の8月9日から陸軍が首都圏への空襲を想定して、初めて大規模な防空演習を実施した。
それを受けて、悠遊は「首都が空襲されるような状態だったら戦争は負け。こんな演習を行っても役に立たないだろう」と批判した。
悠々は当然、軍部よりにらまれ、長野県の在郷軍人会は信濃毎日新聞に謝罪と悠々の解任を求めて、不買運動を起こして圧力をかけてきた。
結局、悠々は新聞社を守る為に自ら主筆の職を退くことになる。
悠々は、この社説よりも前の1912年、崩御した明治天皇の大葬の儀の日に、乃木希典将軍が夫人とともに殉死した時にも、「悪い習慣だ」と批判した記事を書いている。
悠々の記事は、長野県の地方紙であって、東京の大新聞ではないにも関わらず、この記事は世の中に大きな影響を与える力を持っていた。
信濃毎日新聞には、かつて桐生悠々という反骨の記者がいたということを、今も誇りに思っていて、長野市にある本社には彼が使っていた机がそのまま残され、展示されている。

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