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2015年6月19日金曜日

キャリア官僚は明治時代から「エリート」として扱われてきた。
1888(明治21)年に実施された「公開競争試験」がその原点で、これが現在、キャリア官僚の登竜門である「国家公務員採用総合職試験」に引き継がれている。
伊藤博文が1885(明治18)年の内閣制度発足時に、官僚の採用と昇進は試験によるという原則を含む「官紀五章」を打ち出し、上級官僚には大学で法学教育を修了した学生に別枠の国家試験を課し、一定の見習い期間を経たうえで世紀の官吏に採用するというシステムを築いた。
一方で、政府が求める官僚の卵を育成するために、1888(明治19)年に「帝国大学令」によって帝国大学、のちの東京帝国大学が設立され、帝大の卒業生は無試験で官僚に採用された。
公開競争試験が始まって6年後の1894(明治27)年に「高等文官試験」に引き継がれてからは、東京帝大の卒業生も試験をうけて官僚になる仕組みになった。
高等文官試験は1929(昭和4)年の高等試験令以後は「高等試験」が正式名称となり、第二次大戦後は国家公務員試験として受け継がれた。
こうした官僚システムを支えたのが、官僚育成のために設立された旧七帝国大学だった。1886(明治19)年に帝国大学(東京帝国大学)が設立されてから、京都帝大(明治30年)、東北帝大(明治40年)、九州帝大(明治44年)、北海道帝大(大正7年)、大阪帝大(昭和6年)、名古屋帝大(昭和14年)が設立された。
こうした帝大の下にハ旧制高等学校が、さらにその下に旧制中学が設立された。
そして、一中(現日比谷高校)から一高(現東京大学)、そして大蔵省というのが典型的なエリート官僚のコースとなった。
現在も財務省には「大蔵一中会」という日比谷高校のOB会があり、年2回集まって食事をしている。
ちなみに、財務省のキャリア官僚の殆どが東大出身なので「東大会」というのはない。

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