西晋の歴史家である陳寿が、「三国時代の魏こそが後漢を受け継ぎ、魏から正統を受け継ぎ、それが正しいから西晋も正統である」ということを訴える目的で歴史を書いたのが、『三国志』である。
一方、蜀の劉備玄徳は、「中山靖王劉勝の子孫」と称していたが、実際にはどこの馬の骨が分からない人物だった。
なぜならば、中山靖王劉勝には息子が120人存在し、随分世代を重ねており、劉備くらいの血の濃さを持つ子孫は、30万人くらいいることになり、漢王室の一族でも何でもなかったからである。
それを、「漢王室の一族と称せ」とアドバイスし、前漢・後漢という国家を継承させ、「季漢(季は末っ子の意味)」と名乗らせたのが、諸葛亮孔明だった。
なぜならば、中山靖王劉勝には息子が120人存在し、随分世代を重ねており、劉備くらいの血の濃さを持つ子孫は、30万人くらいいることになり、漢王室の一族でも何でもなかったからである。
それを、「漢王室の一族と称せ」とアドバイスし、前漢・後漢という国家を継承させ、「季漢(季は末っ子の意味)」と名乗らせたのが、諸葛亮孔明だった。
しかし、歴史には「季漢」という国家名は残っていない。
それは、陳寿が魏を正統とした『三国志』が正史となった為で、陳寿はあえて地域名である「蜀」とし、「魏書・呉書・蜀書」として『三国志』を書いたからである。
それは、陳寿が魏を正統とした『三国志』が正史となった為で、陳寿はあえて地域名である「蜀」とし、「魏書・呉書・蜀書」として『三国志』を書いたからである。
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