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2017年7月20日木曜日

保利茂は、官房長官や自民党幹事長を務め、大番頭として佐藤栄作の長期政権を支えた。
ニクソン大統領時代に、日本はアメリカと中国は敵対していると思い込んでいたが、アメリカが日本の頭越しに中後区と友好関係を築いてしまった。
日本はシヨックを受けたが、巻き返しを図ったのが保利茂だった。
保利茂は佐藤栄作の大番頭だったが、本当の大番頭は親分の言う通りに動くわけではない。
保利は中国の周恩来首相に「保利書簡」を送ろうと考えたが、中国は「佐藤反動政権」と批判している状況なので、正規ルートで手紙が届く訳がなかった。
そこで保利は、当時の東京都知事でった美濃部亮吉が中国を公式訪問するという話を聞きつけ、ツテをたどって書簡を美濃部に托したという。(1971年11月10日のことだった)
周恩来に届いた「保利書簡」には、「北京政府が中国の合法的政府であり、台湾は中国国民の領土だとの認識に立って、政府間交渉の道を開きたい」と書かれていた。
つまり、日本は中国を正統な政権だと認め、台湾を切り捨てる方向に舵を切る事を認めたのである。
表向きには、周恩来は非公式なものであると、この「保利書簡」をはじいた素振りをするが、この書簡は後に田中角栄がアメリカの先手を打って日中国交正常化(1972年9月29日)を果たす布石となる。
このエピソードが凄いのは、保利が美濃部に手紙を渡し、「保守反動政権」の保利の手紙を持って、美濃部が中国に渡ったという、両者の知恵である。
1971年に二期目の都知事選挙で、美濃部は「ストップ・ザ・佐藤」というスローガンを掲げて当選しているが、その佐藤の大番頭の保利の手紙を仲介しているのである。
保利は「私の手紙を持って行くことによって、あなたが困った立場になりませんか」と美濃部本人に確認したという。
すると美濃部は、「自分は非難されるかもしれませんが、日本が中国と国交を結ぶということは、立場の違いを超えて大事だと思います」と答えたという。
この二人の政治家は、ともに二枚腰、三枚腰の懐の深さを持っていた。

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