731部隊の関東軍における担当参謀は、昭和天皇の従兄弟にあたる武田宮恒徳(つねよし)王だった。
竹田宮とは言わずに「宮田参謀」と偽名を使っていたので、一般には皇族だとは知られていない。
竹田宮とは言わずに「宮田参謀」と偽名を使っていたので、一般には皇族だとは知られていない。
ソ連としては、「宮田参謀」を捕まえて731部隊について追及したかったはずだが、日本陸軍側も万が一そんな事態になっては大変だということで、1945年7月初めに人事異動で「宮田参謀」を東京へ呼び戻し、代わりに大本営参謀だった瀬島隆三中佐を配置した。
もし「宮田参謀」が、8月まで満州に残ってソ連軍に捕らえられていたら、とんでもない騒ぎになっていた。
もし「宮田参謀」が、8月まで満州に残ってソ連軍に捕らえられていたら、とんでもない騒ぎになっていた。
ソ連は1950年の時点で、ハバロフスク裁判をベースに、外交口上書を作成し、アメリカやイギリスに配っている。
そのことは1950年2月3日のソ連共産党機関紙の「プラウダ」に掲載されており、さらにこの裁判の結果明らかになった戦犯の筆頭として、「裕仁」の名が挙がっている。
そのことは1950年2月3日のソ連共産党機関紙の「プラウダ」に掲載されており、さらにこの裁判の結果明らかになった戦犯の筆頭として、「裕仁」の名が挙がっている。
バクテリア戦、細菌戦に備えた第731部隊ならびにその支部を満州に創設することについての秘密指令を出したとして、戦犯第一号と書かれている。
二番目が石井四郎、三番目が北野政次(元731部隊長)、四番目は若松有次郎(終戦時の関東軍軍馬防疫廠長)、この4名が国際戦犯だとしてソ連が口上書を出している。
二番目が石井四郎、三番目が北野政次(元731部隊長)、四番目は若松有次郎(終戦時の関東軍軍馬防疫廠長)、この4名が国際戦犯だとしてソ連が口上書を出している。
東京裁判は1948年11月に判決言い渡しが終わっているので、ソ連は天皇を含めた4人へ、追加で旋盤に指名するというものだった。
アメリカ側が情報を握って石井四郎を囲っていたから、ソ連はこういう手段に訴えたのである。
アメリカ側が情報を握って石井四郎を囲っていたから、ソ連はこういう手段に訴えたのである。
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