「日本のシンドラー」と言われる杉原千畝は、外交官としてリトアニアに赴任していた時に、ナチスに迫害されたユダヤ人難民6000人に対して、外務省の命令に背いてビザを発行し命を救った。
戦後、杉原は外務省をクビにされたが、当時の外務省・岡崎事務次官は「例の件で辞めてもらう」と杉原に言っている。
その名誉回復をしたのは鈴木宗男で、バルト三国との外交関係樹立のタイミングに、外務省の迎賓館である板倉公館に杉原幸子夫人と長男夫妻を呼び、外務省政務次官だった鈴木宗男は頭を下げた。
第二次世界大戦が始まる前の1939年に杉原千畝はリトアニアの首都カウナス日本総領事館の領事代理だった。
その時にナチスドイツがポーランドに侵攻し、ボーランドにいちユダヤ人が隣国リトアニアに着の身着のまま逃げてきた。
彼らはリトアニアで日本のビザを取ってシベリア鉄道でナホトカまで行って、舞鶴か横浜経由で、アメリカと中国に逃げるしか選択肢が無かった。
その時にナチスドイツがポーランドに侵攻し、ボーランドにいちユダヤ人が隣国リトアニアに着の身着のまま逃げてきた。
彼らはリトアニアで日本のビザを取ってシベリア鉄道でナホトカまで行って、舞鶴か横浜経由で、アメリカと中国に逃げるしか選択肢が無かった。
そこで、杉原は当時の松岡洋右外務大臣に「ビザを出してよいか」と電報を打つが、松岡は三国同盟を締結した当事者だった事もあり、ビザ発行の許可が出なかった。
杉原は、「彼らにビザを出さないと間違いなく殺されるから、ビザ発行の許可を頂きたい」と3回電報を打つが、ダメとの回答しかもらえず、杉原は覚悟を決め勝手にビザを発行した。
当時はタイプが無かったので、全て手書きだったので1日200人分書くのが精いっぱいで、それをカウナス領事館が閉まるまで、やり尽した。
杉原はビザをユダヤ人に手渡す時に必ず「日本バンザイ」と言って手渡した。
杉原はビザをユダヤ人に手渡す時に必ず「日本バンザイ」と言って手渡した。
そしていよいよ本国からカウナス領事館の閉鎖命令が出て、ロシアも参戦が決まったため撤退せざるを得なくなった。
杉原は駅のホームで汽車が来るまでビザを書き続けた。
杉原は駅のホームで汽車が来るまでビザを書き続けた。
汽車が到着し、杉原は乗り込む時に、何百人ものビザ発行を待っているユダヤ人に対して、「皆さん申し訳ない、ここまでだ。後は皆さん方の幸せを祈るだけです」と手を合わせて拝んで離れていく。
その時に、ビザを貰えずその後悲惨な運命をたどるであろうユダヤ人達が「日本バンザイ、日本バンザイ」と言って、杉原を見送ったという。
その時に、ビザを貰えずその後悲惨な運命をたどるであろうユダヤ人達が「日本バンザイ、日本バンザイ」と言って、杉原を見送ったという。
この話を杉原幸子の本で読んでいた鈴木宗男は、何としても杉原千畝の名誉をいつか回復せねばならないと思っていた。
鈴木がリトアニアで51年ぶりに外交関係を結ぶ為に訪問した際に、リトアニアに対して「何か記念となる証」を要求した結果、リトアニア政府から「当時、日本領事館があった通りをスギハラ通りとして、永遠にその名を刻みましょう」と提案があり、リトアニアのカウナスに「スギハラ通り」ができた。
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