一神教というのは基本期には自分と神様との関係が重要なので、自分以外には無関心、他の人が何を信じているかということについても関心がないので、それ故に寛容である。
だからエルサレムに行くと、カトリックの教会もあれば正教の協会もあり、ユダヤ教のシナゴーグもあ、イスラムのモスク、シーア派もスンナ派もいる。
かつては紛争も偶発的にしか起きなかったし、今のようにイスラムとユダヤ教の関係がおかしくなったのはイスラエル建国後の話である。
つまり一神教が非寛容で、多神教が寛容であるというは、一神教の歴史からしても、論理からしても成り立たない。
一神教が非寛容になっていくのは、大航海時代以降、帝国主義の流れからで、特定の文明を拡大していこうという中で、キリスト教と文明が同一視されたことによって起きてくる現象である。
実は十字軍もその文脈で見ると分かりやすい。
十字軍の基本的な目的は財宝を取りに行くことだった。
実際にイスラムよりも正教会の方が財産を持っていたので、十字軍はイスラムと戦うよりも、むしろコンスタンチノープルの正教会との闘いニウエイトを置いていた。
十字軍の基本的な目的は財宝を取りに行くことだった。
実際にイスラムよりも正教会の方が財産を持っていたので、十字軍はイスラムと戦うよりも、むしろコンスタンチノープルの正教会との闘いニウエイトを置いていた。
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