ペリーが浦賀にやってきたのは1853年7月8日。
4隻の黒船で煙突から煙を出して、一気に太平洋を渡って、東から やってきたのだと思っていた。
捕鯨の為に、またムチャな要求をするなぁ~、と思っていた。
しかし事実は、1か月前の6月6日に那覇に寄って、西からやって 来ている。
アメリカの東海岸を出発して、アフリカのケープタウンを回って、 インド洋を越えて、マラッカ海峡を通って、7か月半かけて浦賀ま でやって来たのである。
さらに、「黒船」というのも、防腐剤として木材にタールを塗って いたから黒かっっただけで、鉄製の船では無かった。
しかも、4隻のうち2隻は、ただの帆船だった。
ペリーが江戸幕府を恫喝してまで、強く開国を迫ったのは、捕鯨船 への補給や海難時の船員保護ではなく、実際にはカリフォルニア= 上海間の最短航路(20日)の確立が、当時のアメリカの国家的要 請だった。
この航路が実現すれば、中国まで数か月かかるイギリスに圧勝し、 中国貿易をめぐる競争に勝利できたのである。
4隻の黒船で煙突から煙を出して、一気に太平洋を渡って、東から
捕鯨の為に、またムチャな要求をするなぁ~、と思っていた。
しかし事実は、1か月前の6月6日に那覇に寄って、西からやって
アメリカの東海岸を出発して、アフリカのケープタウンを回って、
さらに、「黒船」というのも、防腐剤として木材にタールを塗って
しかも、4隻のうち2隻は、ただの帆船だった。
ペリーが江戸幕府を恫喝してまで、強く開国を迫ったのは、捕鯨船
この航路が実現すれば、中国まで数か月かかるイギリスに圧勝し、
0 件のコメント:
コメントを投稿