18世紀のヨーロッパ人の殆どが、オーストラリアの存在を知らなかった。
1770年にエンデバー号にのったジェームズ・クックは、オーストラリア東海岸へ遠征に出た。
しかし、そこは荒涼とした風景が広がるばかりで、クックの遠征からその後17年間、オーストラリアに向かった者はいなかった。
1770年にエンデバー号にのったジェームズ・クックは、オーストラリア東海岸へ遠征に出た。
しかし、そこは荒涼とした風景が広がるばかりで、クックの遠征からその後17年間、オーストラリアに向かった者はいなかった。
こうした中、1787年にイギリス政府は、オーストラリア大陸を広大な監獄にしてしまうという決断をした。
イングランドの犯罪者は、それまでは絞首刑や禁固刑を受ける代わりにアメリカのプランテーションで強制労働を科せられていたが、1987年にアメリカが独立したのと、またイングランドの監獄も収監定員を超え始めたのが背景にあった。
イングランドの犯罪者は、それまでは絞首刑や禁固刑を受ける代わりにアメリカのプランテーションで強制労働を科せられていたが、1987年にアメリカが独立したのと、またイングランドの監獄も収監定員を超え始めたのが背景にあった。
囚人を乗せた最初の艦隊を率いたのが、アーサー・フィリップで、同時に彼は植民地統治も委任されていた。
この1787年の第1回の航海から1868年までの間に、イングランドとアイルランドから16万人以上の囚人がオーストラリアへ移送れた。
この1787年の第1回の航海から1868年までの間に、イングランドとアイルランドから16万人以上の囚人がオーストラリアへ移送れた。
つまりオーストラリアは、イギリスによる「排除の論理」で作られた植民地なのである。
ちなみに、1770年にジェームズ・クックがオーストラリアに上陸した当時、30万人の先住民であるアボリジニーが住む「無人の地」では無かった。
イギリス政府は、アボリジニーの殺害を厳しく禁じていたが、市議リスから排除された人達によって、アボリジニーは巧妙に排除されていった。
イギリス政府は、アボリジニーの殺害を厳しく禁じていたが、市議リスから排除された人達によって、アボリジニーは巧妙に排除されていった。
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