日本の味文化である東日本の濃口と西日本の薄口の違いが発生した原因は、江戸時代にあるという。
そもそも戦国時代までは貿易や文化の中心は、堺を中心に反映していたが、大阪城建築の際に豊臣秀吉の命令が、堺商人が大阪に移転させられ流通経済の中心が「天下の台所」と言われるようになる大阪に代わった。
大阪は瀬戸内海航路と京都方面への淀川水系の接続地であり、全国の商品が大阪に集められて取引され、改めて全国へ流通していくケースが増えていく事となった。
その際の大阪に商品を入荷するルートの中心が、西廻り航路と呼ばれる17世紀後半から整備された海運航路で、蝦夷地から東北地方を日本海を南下して、関門海峡を通過して瀬戸内海を通過して大阪に繋がっていた。
この西廻り航路によって蝦夷地から鮭、鱒、フカヒレ、干しアワビ、乾燥ナマコ、干し貝柱を運ばれ、長崎や琉球経由で中国に輸出されたという。
清王朝の宮廷料理「満漢全席」は北海道の海産物によって支えられていた。
清王朝の宮廷料理「満漢全席」は北海道の海産物によって支えられていた。
そして、蝦夷地で収穫された昆布の大半が、外貨獲得用の輸出分と京・奈良・大阪の消費に回り、江戸に出荷される料は限られていた。
その結果、関西地方では料理の出汁に昆布がふんだんに使用されるようになり、これり合わせて醸造技術が高度に発展した上方で澄んだたみの醤油が作られた。
「龍野」(兵庫県たつの市)の薄口醤油は江戸時代を代表するブランドだった。
「龍野」(兵庫県たつの市)の薄口醤油は江戸時代を代表するブランドだった。
一方、江戸では昆布の供給量が少なかったことにより、出汁に鰹節に代表される魚類を大量に使用するようなった。
合わせる醤油には、魚の匂いを消す事が求められた結果、関東では香ばしさを出すために小麦が添加され、濃口の醤油が誕生した。
原材料を運搬しやすい利根川水系で醤油の清算が盛んになり、下総の野田や銚子が濃口醤油の産地となった。
合わせる醤油には、魚の匂いを消す事が求められた結果、関東では香ばしさを出すために小麦が添加され、濃口の醤油が誕生した。
原材料を運搬しやすい利根川水系で醤油の清算が盛んになり、下総の野田や銚子が濃口醤油の産地となった。
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