1543年に、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝来したが、当時16歳だった領主の種子島時尭は、2丁の火縄銃を2千両相当の銀と交換した。
2千両は現在の価値だと1億円に匹敵する。
2千両は現在の価値だと1億円に匹敵する。
時尭は1丁を分解して、刀鍛冶職人に渡して同じ物を作らせ、翌1544年には、鉄砲の国産第一号が完成する。
当時、日本は戦国時代で、各地の大名が鉄砲を欲しがり、そこに目をつけた堺商人が大量生産を実現し、全国に鉄砲を売りまくったのである。
その為、鉄砲伝来から10年後の1550年代には、日本国内の鉄砲の数は30万丁まで増え、ヨーロッパが保有する数を遥かに上回っていた。
1575年には長篠の戦いで、織田信長は3000人の鉄砲隊で、最強と言われた武田軍の騎馬隊1万を破ったという。
1600年の関ケ原の戦いでは、鉄砲が5万丁使用されたと言われている。
1600年の関ケ原の戦いでは、鉄砲が5万丁使用されたと言われている。
1600年当時の日本が保有していた鉄砲の数は、世界の保有数の半分を占めていたという。
たった2丁しか鉄砲を持っていなかった国が、50年で世界の半数の鉄砲を持つ国になったのである。
数だけでなく性能も世界トップクラスだったと言われており、17世紀頃には堺商人が開いた貿易ルートを通して、ヨーロッパやオスマン帝国まで、鉄砲を輸出していた。
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