田中角栄の自身が書いた『私の履歴書』は読み応えがある。
議員に当選するまでの話で、幼少期に始まり、15歳で上京し、若い頃からの女性との関係も綺麗な思い出として書かれている。
議員に当選するまでの話で、幼少期に始まり、15歳で上京し、若い頃からの女性との関係も綺麗な思い出として書かれている。
そして軍隊経験があり、戦後、事業を手掛けて人生を発展させた事や、無名時代の恩師とも言える理化学研究所の大河内正敏氏との出会いについても書かれている。
田中土建は戦前に年間施行実績で、全国50位までに入っていた。
田中土建は戦前に年間施行実績で、全国50位までに入っていた。
中でも面白いのが敗戦時のエピソードで、角栄は軍隊除隊後に「田中土建」を設立し、朝鮮半島で工事を請け負っていて、敗戦を迎えた。
しかし、その前に角栄は日本は負けたと直感する。
ソ連軍が朝鮮半島まで攻め込んできた途端に、それまでは日本語をしゃべっていいたのに、汽車の中で朝鮮語が聞こえてきた。
しかし、その前に角栄は日本は負けたと直感する。
ソ連軍が朝鮮半島まで攻め込んできた途端に、それまでは日本語をしゃべっていいたのに、汽車の中で朝鮮語が聞こえてきた。
そこでぐずぐずしていたらまずいと思い、財産を全部寄付して、引き揚げ船にいち早く乗って帰ってきた。
敗戦という危機的な状況を、ある種の直観でくぐり抜けたという。
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