田中角栄内閣が列島改造構想を打ち出した翌年の1973年にオイルショックが起こり、物価と地価が高騰し、列島改造を進めるための基本条件が変わってしまい、田中内閣は列島改造構想を断念せざるを得なくなった。
その経緯には政治的ストーリーがあった。
その経緯には政治的ストーリーがあった。
オイルショック下での予算編成の最中に、愛知一揆大蔵大臣が突然亡くなり、悩んだ挙句に田中総理は、政敵の福田赳夫に後任を打診する。
福田赳夫から「列島改造構想を止めるなら、蔵相を引き受ける」と返事をされ、田中総理は一日考えて、福田の要求を呑むこととなった。
そうしてインフレ克服のために総需要抑制策が取られ、公共事業予算が圧縮されて、列島改造構想は挫折したのである。
しかし、その後年、米国から日本は輸出依存ではなく内需振興しろと言われ、政策の柱になったのが、道路、港湾の整備計画などの公共事業投資で、そのベースになったのが列島改造の考えだった分けでり、田中角栄の哲学は現在のアベノミクスでも生き続けているのである。
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