日本の鎖国体制が崩れるのは1850年代だが、すでにそれ以前から欧米諸国の船が琉球や日本に来航しており、1853年にペリーが来ると鎖国を続けることが難しくなった。
当時、日本は膨張するロシアと、海洋に進出するアメリカの双方から開国要求を突きつれられた。
アメリカが日本に開国を迫った理由は、これまでは食糧や水の確保を目的に太平洋ほ航海する船舶や捕鯨船の寄港地と説明されていたが、最近の実証研究によると、「石炭確保のため」という事が分かっている。
つまり、アメリカはエネルギー供給や通商以外のことを日本に対して求めなかったのである。
つまり、アメリカはエネルギー供給や通商以外のことを日本に対して求めなかったのである。
アメリカが、かなり強引な圧力をかけて日本を開国させたのに対して、ロシアは圧力をかけず、我慢強い態度で日本に接している。
プチャーチンが日本に来たときは、最初は根室に到着したが、「根室では話ができないから長崎に回われ」と言われ、長崎に回ったら「来年来い」と言われ、1年以上の間、ずっとたらい回しにされている。
それでも怒らずに何度も来て、1855年に日露通好条約を結ぶが、この条約には治外法権規定はなく、政治的には平等条約だった。
それでも怒らずに何度も来て、1855年に日露通好条約を結ぶが、この条約には治外法権規定はなく、政治的には平等条約だった。
この条約では、日本とロシアの国境についても、択捉島以内を日本領、得撫島以北をロシア領とし、樺太は両国人雑居の血として境界を定めず、樺太は日本とロシアの「緩衝地帯」だった。
ロシアが高圧的な態度で日本に接しなかったのは、ロシア正教の広め方と関係している。
ロシア正教は、その土地の土着の言葉で洗礼を行い、その国の風俗習慣に合わせていく。
ロシア正教は、その土地の土着の言葉で洗礼を行い、その国の風俗習慣に合わせていく。
当時のロシアでは、ロシア正教を日本で広めるために、宣教師に日本語教育も行っていた。
プチャーチンは日本人の気質を考慮したうえで、力ずくの説得より、時間をかけて交渉した方が良いと判断したと思われる。
プチャーチンは日本人の気質を考慮したうえで、力ずくの説得より、時間をかけて交渉した方が良いと判断したと思われる。
つまり、もし江戸幕府がアメリカよりも先にロシアと国交を開き、強い影響を受けていたら、フィンランドのように自治を認められる形で、ロシア帝国に功名に取り込まれてしまったシナリオの可能性も考えられる。
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