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2017年3月28日火曜日

ギリシャ危機の本質を理解するためには、ギリシャの近現代史を学ぶ必要がある。
古代ギリシャの滅亡以降、ギリシャの地は、マケドニア、ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン・トルコの順番で支配され続けた。
つまり、「ギリシャ」という国は、その間ずっと存在していなかったのである。
ギリシャという国家は、1822年のギリシャ独立戦争が発端となって誕生する。
オスマン・トルコの支配下にあったギリシャが独立を求めて蜂起してが、独立戦争の陰の主役はイギリスとロシアであり、ギリシャは19世紀に恣意的に作られた国家なのである。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、イギリスとロシアは中央アジアの覇権をめぐって対立しており、その中でオスマン帝国をいかに解体していくか、という戦略の一環としてギリシャが作られた。
独立運動の中心となったのは、当時、ロシア領の黒海沿岸にすんでいたギリシャ人で、一方、オスマン帝国のギリシャに相当する地域に住んでいた人々は、帝国内のキリスト教の共同体に入っていたため、「ギリシャ人」というよりも「オスマン帝国のギリシャ正教徒」というアイデンティが強かった。
こうして1829年に独立したことから、現代のギリシャが始まる。
国王にはドイツのバイエルンの王子オットーを迎えたが、あまりにも専制的だったため1862年に革命が起きて追放される。
その代わりに迎えられたのが、デンマークの王子だった。
このようにギリシャは列強の介入によって作られた人工国家だから、誰を国王にするかも列強の意のままだった。
ギリシャが人工国家であることを示す出来事として、1923年にギリシャとトルコ間の住民交換がある。
1829年の独立から第一次世界大戦後まで、ギリシャとトルコは度々戦争をするが、オスマン・トルコが解体し1923年にトルコ共和国が誕生し、両国が戦争を終結した際の条約により、アナトリアにいた正教徒をギリシャに移し、ギリシャにいたムスリムをアナトリアに移すという住民交換を強制的に行っている。
第二次世界大戦でドイツに占領された際に、ギリシャでは、共産主義者と自由主義者による2つのドイツ抵抗運動が起こる。
この両者は手を組むことはなく、対立を深めていき、1944年に進駐軍によってドイツ支配から解放された後、ユーゴスラビア、ブルガリア、アルバニアと同様にギリシャ国内でも内戦が始まる。
そこで、スターリンとチャーチルの会談により、秘密協定が結ばれユーゴスラビアとアルバニア、ブルガリアはソ連の勢力圏とし、ギリシャは欧米の勢力圏と決められた。
問題は欧米の支援の仕方で、工業が発展した工場労働者が増えると共産党による組織化がされる恐れがあり、ギリシャの産業化を支援しなかったことである。
そのため、農業と観光だけの国にし、NATOの基地を置き、金銭的援助によって経済が成り立つようにしてしまった。
西側欧米諸国の戦略によって、ギリシャ経済には基幹産業がないので慢性的な財政赤字の構造となり、債務危機に陥るのは当然なのである。

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