1951年のサンフランシスコ講和条約で国後島と択捉島の放棄をしたにも関わらず、5年後の1956年になぜ修正したかというと、1951年の講和条約に参加はしたものの署名しなかったソ連は、まだ日本との戦争状態が終わっていなかった。
1953年にスターリンが死去し、50年始まった朝鮮戦争も休戦となり、スターリンの後を継いだフルシチョフが平和共存へと路線変更を図ったからである。
1953年にスターリンが死去し、50年始まった朝鮮戦争も休戦となり、スターリンの後を継いだフルシチョフが平和共存へと路線変更を図ったからである。
1955年になるとソ連が日本に国交正常化交渉を呼びかけてき、日本もこれに応じて1955年6月にロンドンで日ソ交渉が始まった。
そこで、ソ連側は歯舞群島、色丹島の2島引渡しを打診している。
そこで、ソ連側は歯舞群島、色丹島の2島引渡しを打診している。
まだ沖縄も小笠原諸島もアメリカから変換されていないタイミングで、ソ連から歯舞・色丹を戻されたら、ソ連はアメリカより良い国だという話になり、日本で革命の機運が高まりかねないとの思惑から、簡単にソ連が返してこれないように仕向けたのだという。
ソ連から返還を打診された歯舞諸島・色丹島に、5年前に一度放棄した国後島・択捉島をくっつけて、「北方領土4島をそろえて」という無理筋の議論を日本が始めた理由は、このためだった。
実際に、アメリカはね日ソ交渉の行方を非常に気にしており、1956年8月には、米ダレス国務長官は「4島一括返還でないなら、沖縄は返さない」という趣旨を日本に伝えている。
同年9月には日ソ交渉に対する米国覚書が出ており「択捉、国後は(歯舞、色丹とともに)常に固有の日本領土」と念押ししている。
同年9月には日ソ交渉に対する米国覚書が出ており「択捉、国後は(歯舞、色丹とともに)常に固有の日本領土」と念押ししている。
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