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2017年10月16日月曜日

1951年のサンフランシスコ講和条約で日本による国後島と択捉島の放棄をしたにも関わらず、講和条約から5年後の1956年2月に、衆議院外務委員会で森下國雄という外務政務次官が修正答弁をしている。
「南千島、すなわち国後、択捉はつねに日本の領土だった。講和条約にいう千島列島の中にも両島はふくまれていない」と。
常に日本の領土だったという事は、国後島と択捉島の南千島2島を放棄したことは過去に一度もないことになる。
これ以降、これが日本政府の藤一見解になってしまった。
外務省は、ここまでの経緯について黙っている。
別に嘘はついていないが、ただ黙っている。
ちなみに、「北方領土」という言葉は、1956年2月以前の文献には、全く存在しない。
というのは、敗戦までは千島列島の先端までずっと日本国だから、わざわざ「北のほうの領土」という人はいなかった。
ソ連に占領されたあとも、占領された千島列島や国後・択捉島などを北方領土と呼んだ人はいない。
ソ連に取られて、領土で亡くなってしまったから、「北方領土」という言葉そのものが存在しなかった。
ところが、外務省は1956年3月に、初めて「北方領土」という言葉を使用する。
これは、奄美大島や沖縄を「南方領土」と言ったのに対して、「北方領土」と言ったからで、「わが国固有の領土」という言葉も、この時に生まれている。

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