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2016年8月4日木曜日

日本のリベラリズムの始祖は福沢諭吉であり、大正期のジャーナリスト長谷川如是閑が、それを受け継ぎ発展させた。
もう一つの流れとして札幌農学校発のリベラリズムが存在する。
初代教頭のウィリアム・スミス・クラークの教育理念は、後世に大きな影響を与えたのである。
クラークは帰国前に、ニューイングランドのピューリタニズムに基づく「イエスを信ずる者の契約」を書き、一期生16名が署名した。
クラークが去った後、二期生18人のうち15人がクラークの契約書に署名し、その多くが受洗した。
これらの信仰グループが1882年に札幌独立キリスト教会を設立し、いわゆる「札幌バンド」を拓く。
この信仰グループの中心にいたのが、二期生の内村鑑三と新渡戸稲造であり、札幌発のリベラリズムの系譜の代表者はこの二人である。
英文による代表的な著作を残し、時流に媚びず、軍事大国化する日本で最後までリベラルな姿勢を保ち続けた点で二人は共通する。
札幌農学校の卒業生は、キリスト教とともに、初期資本主義の起動を準備したプロテスタンティズムの倫理、さらにそれを土台にした民主主義の精神を学んだのである。
「平等」と「自由」こそが、新渡戸らが札幌農学校で学んだピューリタン精神だったのである。
札幌発リベラリズムは、その後、卒業生の多くが、全国に生まれた旧制中学や師範学校の教員として派遣され、全国に広がっていく。
一期生の大島正健は甲府中学校長となり、その薫陶を受けた石橋湛山は大島からクラークの話を聞き、「一生を支配する影響を受けた」と言い、石橋の書斎にはずっとクラークの肖像を掲げていたという。
二期生の鶴崎久米一は、神戸中学の初代校長として、創立10周年を期して、全規則撤廃し、全てを生徒の自治にゆだねた。
終戦の年の秋に東大総長に就任した南原繁も、一高で新渡戸の教えを受け影響を受けた。
南原の後任として東大総長に選ばれた矢内忠雄、篠原内閣の文部大臣となった前田多門、教育基本法の生みの親ともいえる教育刷新委員会の南原、天野貞祐、森戸辰男らは、一高時代に内村鑑三と新渡戸稲造の薫陶を受けた者達だった。
戦後民主主義がGHQ主導で始まったことは確かであるが、多くの国家主義者が公職追放された結果、それまで押さえつけられていたリベラル派が戦後の制度設計や運用を任された。
戦後に復権したリベラリズムは、単なる進歩な知識人や左派ではなく、彼らが相対し抵抗したのは、全体主義であり、権威主義である。

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