荒川区には荒川は流れていない。
昭和初め、荒川放水路ができるまで、隅田川が荒川の下流だった。
昭和初め、荒川放水路ができるまで、隅田川が荒川の下流だった。
東京に35区あった1935年当時、35区の中で最も人口が多かったのは荒川区だった。
現在のように自動車輸送が発達していない当時、隅田川の水運に恵まれた荒川区に大中小の工場が集積し、その工員たちの住宅や消費が荒川区に繁栄をもたらした。
日本における集合住宅普及の歴史は、関東大震災後の住宅供給の担い手として設立された同潤会アパートまで遡る。
同潤会は東京23区に14のマンションを建設するが、その配置を見ると荒川区を含む東京東部の京浜東北線と明治通りの間に、8か所が集まっている。
昭和ヒトケタ当時、23区のどこがハイカラタウンだったかが、同潤会アパートの分布を見ると理解できる。
同潤会は東京23区に14のマンションを建設するが、その配置を見ると荒川区を含む東京東部の京浜東北線と明治通りの間に、8か所が集まっている。
昭和ヒトケタ当時、23区のどこがハイカラタウンだったかが、同潤会アパートの分布を見ると理解できる。
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