明治末期から大正にかけて、東京の東側の城東地区一帯に住んでいたのは、元々貧した地方から東京に仕事を求めてきた流入者だった。
彼らは、日雇、土方、車夫、運送業などに従事する「都市下層民」で、当初は東京全域に点在していた彼らは、明治の中頃から「下谷・浅草区」に集まり、明治後半から次第に「本所・深川区」といった地域に定着し「貧民窟」を形成した。
大正時代には、彼ら貧民窟の住民の生活は大きく変わり、第一次世界大戦を機に、造船業を中心とした産業の発展期を迎え、本所・深川周辺は町工場が集積するエリアへと変化し、工場労働者となった下松の産業化を下支えする存在となっていった。
こうした町工場の周辺に労働者が住み、その街に商店街が発生し、下町となった。
東京の西が「新中間階級」が住む郊外の住宅地、東が「労働者階級」が住む下町という大まかな社会階層の違いが、東京の「西高東低」の原点だった。